身体

身体に習おう

 人間は『陽気ぐらしをするのを見て神も共に楽しみたい』という親神様の思いから創造された。そして人間の身体は親神様からの借物であり、心だけを人間が自由に使わせて頂けるようお許し頂いているというのは、私達の信仰の基本教理の一つです。病気は、神様からの、私達人間に陽気ぐらしをさせるためのお知らせであり、注意なのだというのは、よくお聞かせ頂くことです。

 身体が神様のものであるならば、私達自身の身体の仕組みを考えれば、ある程度神様の方の思いも分からせて頂けるように思います。そして私達の心と、身体の違いを考えれば、神様と私達の心のずれもある程度わかるということになります。

 今思うままに、身体の特徴を挙げていくとしたら、食いだめ、寝だめができないということ、使わなければ弱ってしまうということ、何事においても限界がはっきりしていること等が浮かんできます。

 今月は、その中で、身体が食いだめ寝だめができないということについて考えてみたいと思います。

 目の前にいくらごちそうがあっても、残念ながら満腹では、それ以上食べられません。食べたとしてもそうおいしくは感じないでしょう。逆に、空腹ならば、どんなに粗末な食事でも、高級レストランの食事と同じくらいおいしく感じるでしょう。しかしいくらおいしくても、一回の食事で、二日分も三日分も食べおきするわけにはまいりません。どんなにたくさん朝食をとっても、少なくとも夕方には、おなかが減ってきます。睡眠も同じことで、よく寝ておけば、一日や二日の徹夜はなんとかなるでしょうが、十日間寝ておいて、十日間起き続けるというわけには参りません。

 逆に心の方はどうでしょうか。あるが上にも欲しい、今日の食事が確保できても、明日の食事も確保しておきたい、あさっての食事、しあさっての食事も・・・と、限りがありません。欲望に際限がないのが、心の姿です。際限がないのは、明日のことが、あさってのことが、心配だからでしょう。今日の食事を確保出来た喜びよりも、明日の食事が確保されるかどうかを思い悩むから、貯めた上にも貯めたいと思ってしまうのでしょう。

 しかし、食いだめが出来ない身体から見れば、今日一日の活動を支えるためにはそれだけの食事で充分ということです。一回の食事で二日分も三日分もの活動は出来ないということです。もっといえば身体は、その時々において、必要なものだけが必要で、それ以上は逆に身体を弱らせて行く原因になってしまうということになります。身体は今を活動するためにあるのであって、食事はそのための燃料であります。

 自動車は、ガソリンという燃料がなければ動きません。身体も食事という燃料がなければ動きません。 石油ショックの時でもあるまいし、ガソリンを思いきり買い込んで、これで明日の分も、あさっての分もと貯め込んでみても、それでは一年後は、十年後のガソリンを心配すれば、きりがありません。それに行きたい目的の場所があるからこそ、自動車が必要であり、ガソリンが必要なのであって、ガソリンだけをいくら貯めてみても意味がありません。

 身体も同じことです。身体を使ってしたいことがあるから、やらなければならないことがあるから、食事をとるのです。そしてその食事は必要以上には絶対に入らないのです。

 そんなことは、ここでくどくど書かなくても誰もがわかっていることです。しかしその食事が、金や物に置き換わったとき、人は知らぬ間にガソリンを一杯貯め込んでしまうような愚を犯しがちになってしまいます。

 自動車の目的は、人を別の場所へ運ぶことです。人の目的は陽気ぐらしをすることです。

 行く場所も分からないのに、ガソリンを貯め込んで、火事の危険を招くような生き方をしてはいないか、今日の食事を噛み締めながら考えてみるのも、大事なのではないでしょうか。155年2月

 

 

 

なにがあるならどのような

奉告祭のあと、ご飯が少し食べても喉からひっかかるような気がして、病院に行って精密検査を受けた。結果はおかげさまで異常なしであったが、十年以上前に胃カメラを飲んでから、久しぶりだった。

前は、ちょうどwの初代会長が肝臓ガンで出直した直後で、一人では心細く、妻について行ってもらった。お医者さんに「近親者が亡くなられた時は、同じようところが調子悪くなる人が多いのですよ。」と、妻同伴を笑われ、検査結果を二週間後に聞きにいくことになった。二週間後、先生の前に行くなり、「今日は奥さんは来ておられないのですか。ウーン実はどうもね…」と、脅かされた.。今度生まれ変わったら、医者になって一度はこんなふうにおどかしてやりたいと思っている。

 それからちょうど十年経って、今度はある人のおさづけを続けさせていただいている時にそうなった。『おさづけ』をさせていただいていたら、その病気をもらう時もよくあると、聞かせていただいているので、近親者の病気で悩むよりも少しは成人したかなあと、思いながら今度は一人で病院に行った。

口から胃カメラを飲んで胃までと、汚い話で恐縮だが、お尻から大腸へカメラを入れたので、ちょうど口からお尻まで、人間は一本の管であるというのを実感した。一緒に見てもいいというので、初めて自分の内部を見せていただいた。ピンク色でなかなかきれいなものだった。腹もあまり黒くなかったので、少し安心もした。

『おふでさき』に、

たいないに なにがあるやら どのよふな

ものでも しりたものわ あるまい 12−174

とのお言葉があるが、本当にそうだとおもった。お顔の小じわや吹き出物は、化粧でごまかすことも出来るが、体の内側に吹き出物が出来るとなかなか大変だ。しかも内側だから、普段なかなか気がつかないし、防ぎようもない。

その内側をご守護頂く方法も、『おふでさき』でお教えいただいている。

口さきの ついしよばかりハ いらんもの

しんの心に まことあるなら  3−39

 口先のお追従はいらん、心の奥底に誠真実があるならと神様はお教えくださる。

口ばっかりとは、世間でも言われるが、そう言われないように、しっかりさせて頂かねばならない。ピンク色の鮮やかな内壁を見せていただきながら、心の方はこんなにきれいではないなあ、神様にだいぶ大目に見ていただいているなあと思いながら、そんなことを考えていた。163年3月

 

 

心の白内障

この世の全ての生物は、誕生と成長と老化と死を繰り返す。

生物であるならば、人間も他の動物も植物も、この原則から逃れることは出来ない。

しかしながら人間の心は、いみじくも神様からお教えいただいたように、貸していただいている身体は、この原則から離れられないが、心の自由を許されている心は、この原則から自由であるらしい。心の成長を『成人』とお聞かせいただく。といっても、大方の人の場合、せっかく与えられた自由を満喫できずに、心も身体と同じように、老化してしまう場合が多いようだ。

赤ちゃんや幼児を見れば、人間をお創り下さった神様の思いが分かるような気がする。無心に眼をあけ、物を追い、手にとり、口に入れようとする赤ん坊のしぐさは、この世の全てを味わいたいという人間の姿が、そして邪気のない幼児の瞳は、人間が生来善であることを教えてくれているように思う。

しかし私たちは、成長するに従って曇ってゆき、曇らされてゆき、偏った見方しか出来なくなり、この世にツバ吐くことしか出来なくなって、閉鎖的で、傲慢で硬直したものとなる事も多い。年をとって眼が濁ってくるのは白内障のせいばかりとは言えないだろう。

神様は『さんさい心』とお聞かせいただいた。悟り方には諸説あるが、三歳の時のような心をその底に持ちつづけることが、心が老化しない秘訣なのではないかと思う。

『さんさい心』とは、何があっても親を信じるという心だと思う。

しかしながら『さんさい心』とは、三歳の時の心ではない。いい年をした大人が、昨今はそんな大人になりきれない大人もずいぶん見かけるようになったが、三歳児のようなことを言ったり、したりしていては、それは可愛いのではなく、腹立たしいだけである。

身体が成長するように、心も成長しなければならない。心の成長に従って、人間のきれいな面だけではなく、汚い面も、いやなところも、経験するのである。私は心については、この経験が一番大事だと思うし、こんな経験のない幸福な人は、ただおめでたいだけで、結局周りの人を不快にしたり、相手の気持ちを汲み取れない人が多いように思う。

だからこの経験は大事なのだが、もっと大事なのはこの次である。この経験を通して、人間はそんなものさと訳知り顔にうそぶき、そんな人の仲間入りをすれば、身体の老化と共に心も老化してしまう。

人間なんてそんなものだけど、それだけではないはずと、赤ちゃんの探究心と、三歳の時のように親を信じきる心で通っていけば、心の成長は、『成人』へと進化していく。それは、人にしか許されていないな事であり、まさに字義通り人に成るのである。

それはそんなに簡単なものではなく、行きつ戻りつの道であるに違いない。しかしせっかく神様が、唯一老化しないものとしてお与え下さったことなのだから、それを楽しみに歩んでみようと思う。

人間はそう奇麗ごとばかりで生きてはいけんませんと、したり顔の話に相づちを打っているあなた、そして私。

身体の老化は仕方がありません。子どもの時、どこへでも跳んでいけた足も弱り、ふさふさだった髪は抜け落ち、丈夫だった歯も弱ってきました。輝いていた眼も白内障で濁りがちです。

でも、心の目も白内障にはなっていませんか。身体の白内障よりも、若い時からかかりやすいそうですよ。                       163年11月