教会の方針

 

 五千人の心定め    

 先日神殿の横の廊下に電球をつけさせていただいた。おつとめの時、鳴物を置く場所であるが、雨のときなどは暗くて見えにくいという声があったからだ。その後、私の就任奉告祭の祭文を読みなおす機会があった。その中で、『教会に帰って来るだけで心が明るくなるような教会にさせていただきたい』と神様にお願いしていた。まずは形だけでも明るくさせていただいたと、一人苦笑してしまった。

  その奉告祭の挨拶で「一人でも多く教会に帰っていただきたい。里に帰るようなつもりで」ともお話しした。そのことでうれしいことがあった。一月の二十日、大祭のあと、ひのきしんをしてくださった人を送って行く車中で「里でゆっくりさせていただいて、ようけおみやげもいただいて・・・」と独り言のように言われるのを聞いた。その次の日、前日に参られなかったと、参拝に来られて方があった。少し話をした後、信者さんのおつとめがあったので、車で家まで送りましょうとその人にいったところ、その人が、「せっかく薮入りさせてもらったので、もう少しおらせてもらいます」とおっしゃられた。

 わたしはそのお二人の言葉がとてもうれしかった。二人とも年齢からいえば私たち夫婦の両親といってもおかしくない年齢だ。そんな人達が、教会を里と呼び、薮入りといってくれる。もちろん教会は信者さんがたにとっては親元だし、そういう意味からいえば里であり、教会に帰ることは薮入りに違いないのだけれども、そんなふうに実際何げなく言っていただけるのは本当にそう思ってくれているからこそと、うれしくてならなかった。

 去年の九月より参拝者の累計をとっている。半年毎に総計の予想投票もしていただいている。累計をとることになった理由は二つある。ひとつは言うまでもなく、できるだけ多く教会に参拝していただきたいからである。教会へ参拝することは道をつくることだと思う。さあという時に神様にすぐたすけていただく道をつくることである。踏み歩いてこそ道になるのである。通らなければどんなに大きかった道も『草がしこりて道知れず』となってしまうだろう。

 もう一つは信者さん方それぞれに心定めをしていただきたいからである。教会として毎年初席者、よふぼく、修養科、教人登録の心定めを本部に出させていただいている。しかし残念なことにこの心定めが、あまり自分と関係のないように思っている信者さんも多いように思う。 そういう人々にとっても、教会への参拝は目に見える形の心定めになる。一度参拝させていただいたら確実に累計は、一人増えるのである。教会として独自に年間参拝者総数五千人の心定めをさせていただいた。一人一人の参拝が教会の心定めの完遂という成果となってあらわれる。

  皆さんがた一人づつが今年一年の参拝の心定めをしていただきたいと思う。月次祭に欠かさず参拝させていただいたなら十二回である。婦人会を含めれば二十四回。毎日ならば一人で三百六十五人分の働きをさせていただいたことになる。それぞれがそれぞれにあった心定めをしていただきたいと思う。そして去年よりは少しでも多い心定めをしていただきたいと思う。

 ちょうど里に帰るようなうれしい気持ちを一人一人が神様にお供えして、教会に帰っていただくことが出来れば、私にとってもこんなにうれしいことはない。                                               156年2月

 

 

お願いとお礼の用紙           

 先月よりお礼とお願いの用紙をつくらせていただいた。そこに、それぞれの身上(病気)や、解決していただきたい事情を書いていただくことにした。 

  ある信者さんから、どこか違う宗教のようですねと言われ、そう言われればそんな気がしないでもないが、まず誤解のないように言わせていただくが、わたしの本意は別にその病気や、事情を書くだけで、まじないのように(不思議なことにお願いの用紙に書くだけで、不思議な御守護を幾つも見せていただいてはいるが)、解決していただくということで、はじめたのではない。

 私たちの教えは、病気がなおったり、事情が治まったりすることを目的にしているのではない。私たちの心が、親神様の思いに少しずつでも近づくこと、私たち全てが兄弟姉妹であり、神様の子供であることを真から納得し、お互い助け合う気持ちにならせていただくことが目的なのである。神様は、事情や身上を通して、この道にお引き寄せ下さったり、その心に少しでも近づかせていただけるようお仕込み下さるのである。だからこそ『身上事情は道の華』とお教えいただくのである。

 もちろん不思議な御守護をいただいて、病気や事情を治めていただくことは多い。私たちの信仰の初代は皆、そんな不思議な御守護をいただき、この道にお引き寄せいただいたのである。誰でも悩んでいることを、たすけていただいたら感謝をする。しかし猿ではないが、感謝だけなら誰でもする。初代たちは、ただ感謝だけでおわるのではなく、教祖に『(御恩がえしの方法は)金や物でないで。たすけてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、たすけてほしいと願う人を、たすけに行くことが、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように』と、お聞かせいただいたお言葉を、素直に実行したのである。たすけられたものが、すぐにたすける人となったのである。 

  その初代たちから比べて私たちは、どうだろうか。たすけられたままでいる場合が多いのではないだろうか。いつも申し上げているが、『さづけの理』は自分には取り次げない。『さづけの理』をいただいた、即ち『よふぼく』となるということは、本来は、たすける者にならせていただくと、神様と約束するということなのだ。

 そうはいっても、『おさづけの理』を一度も取り次いだことのない『よふぼく』が増えた今、そのことはなかなか難しいことでもある。

 そんな人でも、誰にも言わずお願いはできると思う。本人にも言わず、添い願いは出来ると思う。そのための一つの方法として、お礼とお願いの用紙をつくらせていただいた。病気や事情で困っている人の名前を、書いていただいたらよいのである。

 皆さんにも申し上げたが、お願いは出来るだけ自分の身上や事情を書くだけではなく、誰かほかの人の事を書いていただきたいと思う。そして毎月月毎祭に、私たち一人一人が、それぞれ誰か別の人のお願いをさせていただき、お礼の用紙には、どんな事情や身上であろうとも、喜びの心一杯で、自分の一月のお礼を書かせていただけるようになったらどんなにすばらしいことだろうか。                                               160年2月

 

 

「こうせい寮」                              

  四月四日より、いよいよ普請が始まった。

 長年使わせていただいた「こうせい寮」と、裏の倉庫が、三日ほどでさら地になった。

 建てるのは大変だが、こぼつのは本当にあっと言う間だ。

 そう書きながら果たして「こうせい寮」とはどんな字を書くのか、はっきりわからないことに気が付いた。いつもは「更生寮」と書いていたが、これとてそれでいいのかよくわからない。「りょう」は恐らく寮であっていると思うが、「こうせい」はどうだろうか。

 ワープロで打ち出すと更生、更正、厚生、公正、攻勢、後世、向性、好晴、硬性、・・・と幾つも出てくる。 生まれ変わる更生、改め正す更正、体力生命力を増進する厚生、明白で正しい公正、積極的に攻め掛かる攻勢、後の世の後世、生物が一定の刺激に応じて法則的に運動方向を定める性質を意味する向性、晴天を意味する好晴、堅い性質の硬性。こういうふうに考えていくと、どれもが当たっているように思えてきた。

 この「こうせいりょう」にはいろいろな人が暮らした。長年教会に住み込み、教会の上に尽くしてくれた人。身上になり、教会で暮らしご守護を頂いた人。

 様々な事情や身上の人がここで暮らし、この場所でたすかり、ご守護をいただいた。

 そのことを今も覚えている人もいれば、何代も前になり、先祖がこの場所で住んでいたことさえ忘れている人もいるかもしれない。それでもここで住んでいた人々が残した伏せ込みによって、今の自分があるということだけは覚えていて欲しいと思う。

 それは本人や家族や子孫だけに限らず、まず会長である私が忘れてはならないことだと思う。あなたがたのお陰で、今の教会があり、私があるのだから・・・・。

 残念ながら、この「こうせい寮」は、今はもうその姿がなくなった。しかしこの場所で神様を信じ、神様を目標に暮らした人々の思いと共にこの「こうせい寮」は、新しく仮神殿として生まれ変わる。そして仮神殿としての役目が終わった時、一階は炊事場・食堂になるが、二階は、また教職舎として、以前と同じように、いろいろな人を泊め、いろいろな人が、たすけられ、そのたすけられた者が又、たすかりたい人をこの場所にいざなう、そんな場所になって欲しいと思う。

 そんな場所になるように、新しくできる教職舎にも「こうせい寮」と名付けたいと思う。

 漢字は意味を限定してしまうから、更生でもあり、更正でもあり、厚生でもあり、公正でもあり、攻勢でもあり、後世でもあり、向性でもあり、好晴でもあり、硬性でもあるように、平仮名で「こうせい寮」と名付けたいと思う。

 ひらがなで名付けるにはもう一つ大きな理由がある。

 ここに暮らした人はそれぞれ境遇も、出生地も、年齢も、病気の種類や、暮らした事情も皆異なっているが、ただ一つだけ共通点がある。

 それは、神様に、そして会長にいろいろなお話の後、「こうせい(こうしなさい)」と言われた時、悩み、苦しみながらも、最後には自分の都合を捨てて、素直に従った人ばかりだということだ。だからこそ、この場所に住み、それぞれにご守護戴いたのだ。

 そしてこの、「こうせい」と言われた時、素直に従うというその一点こそが、今も変わらず、そして未来永劫変わることない、たすけていただく一番大事なことの一つだと思うのです。

 その新しい「こうせい寮」のふしんに、皆様方の大きなご尽力をどうぞお願いいたします。

 会長が、「こうせい」と申し上げておるのですから・・・。161年4月