年頭ごあいさつ 164 

新年明けましておめでとうございます。

 立教百六十四年という新しい年の幕開けです。

昨年は教会のうえに、特に神殿普請のうえには物心両面に於いて多大なご尽力をいただき、誠にありがとうございました。

 おかげさまで四月九日には、三百数十名の参拝者と共に、賑やかに竣工奉告祭を執り行わせていただきました。本当にありがたく心よりお礼申し上げます。

 今年も年頭に当たり、思うところを述べまして新年のごあいさつとさせていただきます。

                                                                   

 現在の世情

 二十一世紀という新しい時代に入っても(といってもこれはキリスト教暦で、本教ではまだ百六十四年ですが)、あまり芳しい状況に日本はないようです。

 株価の低迷、倒産、失業率の増加など経済の不況に加えて、少年犯罪の増加、親の子供虐待等々、新聞に踊る活字は、冬の気候以上に寒々としたものを感じさせます。世紀末の閉塞感は、新世紀が来ても解消するどころか、ますますその感を強めていくようです。

 しかしながら、不況やいろいろな事件も、今まで私たちが経験してこなかったものはありません。ニューヨークの株価大暴落から始まった戦前の大恐慌は、現在の不況の比ではありませんでしたし、幼児を餓死させた親が話題になりましたが、ほん最近までは、間引きという究極の幼児虐待が半ば公然と行われていました。

 しかしそんな今までの事件とどこか違う、と感じている人も多いのではないでしょうか。それは世紀末特有の閉塞感でしょうか。そうとばかりは言えないようにも思うのです。例えば、幼児虐待は、間引きという言葉が現在的に変わっただけなのでしょうか。そうではありません。貧しさの中で、子供を育てられず殺してしまう間引きは、貧困という、事の善悪を度外視すれば、納得できる理由があります。しかし今、日本は有史以来最高の豊かさを、享受しています。江戸時代のどんな大名よりも暖かい冬を過ごし、ごちそうを食し、様々な享楽に取り囲まれています。そんな中、先日も新聞紙上を騒がした、若い夫婦のせっかんと放置による子供の餓死は、貧困という理由のあった間引きと同一視できるはずがありません。「なぜそんなむごいことができるのか、わからない」というのが、私たちの事件への正直な感想ではないでしょうか。少年犯罪の凶悪化に、私たちがそこはかとない不安を覚えるのも、私たちが納得できる理由がない犯罪が多くなってきたこと、「なぜそんなむごいことができるのか、わからない」としか言えないような残虐な犯罪が、増えてきたからのように思います。理由が分かれば、人はある程度納得できます。逆に理由の分からないことは人を必要以上に不安にします。そんな理解の出来ない事件が増加しつつあることが私たちをさらに不安にしています。

 今の若い世代との断絶感はおおいようもありません。まるで異邦人であるかのような若者も増加しました。異邦人のような若者の増加、理解の出来ない事件の増加の原因は、一体どこにあるのでしょうか。それは共通の目的の喪失です。人間としての生きる共通の目的の喪失が、その原因の一つなのではないでしょうか。

 

目的の喪失

 私たちは今、人類史上最も大きな曲がり角に立っています。

 戦前、私たちは「豊かになりたい」という共通の目的を共有していました。いやもっと大昔から、言うなれば人類はその誕生以来、「豊かになりたい」という共通の夢を追い続けてきたのです。毎日なんでもよいから食べ物にありつきたいという原始時代から、所得倍増の池田内閣まで、その豊かさの基準は様々に変化しましたが、「豊かになりたい」という夢は不変でした。一世を風靡した共産主義も、そして資本主義も、「豊かになりたい」という目的は同じで、その手段に差があっただけなのです。

 しかし私たちは今、豊かさの飽和状態の中で生きています。

 茅葺きの掘っ建て小屋で、明日の食料ばかり考えていた古代の人々からの連綿として続いて来た夢が、私たちの時代にほぼ達成されたのです。

 「豊かになりたい」という共通の目的が、程度の差があれ達成された後、私たちは新しい目的を見いだせぬまま、新しい世紀を迎えようとしています。

 ちょうど今私たちは、ゴールに入ったランナーのように、それぞれが別の方向に歩こうとしています。しかし、その方向は、細分化し多様化して、共通の新しい目的は見いだせぬままに、お互いが様々な方向に歩いて行きます。共通の言語を話す人々の中でしか、コミュニケーションが成り立たないように、「豊かになりたい」という共通の目的を喪失した今、私たちは、まるで言葉の分からない異邦人同士となったかのようです。

 特に若者達にとって、豊かさは生来のものです。飢えに苦しんだことも無く、寒さに震えることも無かった若者は、自分で人生の目的を探さなければなりません。国民の大半が中流という意識の中で更なる豊かさへの追及は、ちょうど顔に色を塗ってその差異を強調するぐらいの、ほん小さな差異を求めることでしかありません。共通の言語を持てなくなった人々は、小さなグループに細分化され、さらに孤立化を余儀なくされます。人々はまるで暖かい暖房の中で、心の寒さに震えているかのようです。

 外では、不況という重い雲が被さり、内では、心の中に老後への不安と、まるで連帯感の持てない、宇宙人のような人間たちに囲まれているような不安。それが私たち自身の閉塞感を更に助長します。この閉塞感を晴らす方法が果たしてあるのでしょうか。

立教の意義

 この共通の目的の喪失という状況を脱するただ一つの方法が、私たち天理教の教えなのです。

 「豊かになりたい」という目的の喪失こそが、新しい目的への旅立ちなのです。

 この目的の喪失という点にのみ焦点を当てて、立教の意義について考えて見たいと思います。

 詳細は割愛致しますが、私たちは『元の理』によって、人間創造の時と場所と方法と目的、そしてその後の経過をお聞かせいただきました。経過だけを考えると、親神様は、人間は創造時より、『その子数の年限』すなわち九億九万九九九九という数字の年限が経過した、天保九年(一八三七年)十月二十六日に教祖を『やしろ』として、この世に顕現されました。それは九億九万九九九九年かかった人間の形としての成人に終止符を打つとともに、今度は人間の内面、つまり心の成人をお教えくださるためなのです。

 『元の理』は、人間の形の成人の記録です。科学的という言い方を許されるならば、原始の地球の泥海の混沌たる中から、いかに進化を繰り返し今のホモサピエンスという種にまで成ったかという形の記録だと思います。

立教の時代、産業革命が起こり、豊かさへの最後の新しい波が始まり、形の上での豊かさは、少なくとも先進諸国では、ほぼ達成されました。

人類の長年の夢であった豊かになるということが、共通の目的でなくなった時代が訪れたのです。それは立教の意味と大きく重なります。立教以後、教祖が最初になされたことは、豊かということへの辛らつな疑問でした。

 教組の五十年にわたる『ひながた』が、私たちに問い掛ける大きな一つは、「おまえにとって豊かとは何か」ということなのです。

 人類の長年の夢であった豊かになるという目的が、立教以後加速し、現在の日本においてはほぼ形の上で達成されたことは、決して偶然ではないのです。

ちょうど十数年前の教祖百年祭の『白紙に帰り、一より始める』という諭達が発布されましたが、人類共通の目的としての豊かさを達成した今、「おまえにとって豊かさとは何か」を個人として問われる時代になったのです。

私たち人類は今こそ、形の豊かさから心の豊かさを求める時代に大変換しなければならないのです。  

心の豊かさとは何なのでしょうか。それは端的に言って、親の心になるということだと思います。私たちは今までがむしゃらに豊かさを追い求めてきました。欲しいものを手に入れるためには、他人を押しのけても良いと、考えて来ました。戦争が煎じ詰めればその究極の手段です。それはまるで幼児がおもちゃを欲しがってダダをこねているかのようです。そんな幼児から、子供に与えて喜ぶ親の心への成人。子供さえ出来れば親にはなれますが、親の心にはなれないのは、餓死させたあの親を見るまでもなく、分かることだと思います。

元の理で明かされたように、人間としての形の完成が九億九万九九九九年かかったのであるならば、心の完成も九億九万九九九九年かかる遥かな旅路への新しい出発なのです。

 そのことを自覚し、新しい人類の共通の目的にすること、私たちが、形の上での成人の時『九十九年たって皆出直してしまうことを三度繰り返し、その後八千度(はっせんやたび)の生まれ更わりを経た』後、ようやく今の人間にまで成人したのと同じように、心の成人も簡単にいくことではないと思いますが、信じ、実行することが、この世界を混沌たる泥海から救う唯一の道なのです。

 

大きな目的のための小さな実行

 大きなことばかり書いてしまいました。大きなことは、しかし結局人を動かしません。小さなことの積み重ねが大きな目的へと近づきます。 そのためにまず、昨年と同じように、よふぼくの充実と、後継者の育成を、二つの柱としたいと思います。

よふぼくとしての自覚

今年よりよふぼくの方には、誕生カードを出すことにしました。それは、単純にその方の誕生日をお祝いしたいという気持ちと、もう一つの誕生日「おぢばで生きながらにして生まれ変わった第二の誕生日」『おさづけの理』拝戴の日を忘れないようにしていただきたいとの思いからです。『おさづけの理』を拝戴された人に、私は「おぢばで生まれ変わるというのは、自分が助かりたい、幸せになりたいと思っていた過去の自分から、人に喜んでもらいたい、人の喜びが自分の喜びという自分に生まれ変わることであり、『おさづけの理』が、自分がどんなに病気で苦しい時も自分には取り次げず、人にしか取り次げないという意味をしっかり考えて欲しい。」といつも申し上げています。

 どうぞよふぼくの皆さん、まず『おさづけの理』を取り次がせていただいて欲しいと思います。人のために真剣に祈ることが出来るのはまず『おさづけの理』を取り次ぐことからです。  

昨年も書きましたが、わたしたちは、『人をたすけて我が身たすかる』とお教えいただいております。それは申すまでもなく、自分が助けてほしいから人を助ける、人を助けたから今度は自分の番だというような皮相な意味では断じてありません。病む人に『さづけの理』を取り次がせていただき、真剣に人のためにお願いさせていただくことによって、病人も御守護いただき、またそれ以上に取り次がせていただいた当人に不思議な御守護をいただくのです。そしてそれは他の人に、真剣に取り次がせていただくことによってのみ、分からせていただくものです。

よふぼくの方々は、『さづけの理』を拝戴することで「教会への義理は果たした」と思ってしまうのではなく、『さづけの理』を取り次がせていただくことが『よふぼく』の使命であり、これからが本番なのだとお考えいただきたい。   

又いまだ『よふぼく』でない方は、是非神様のお話を虚心に聞き、自分の生き方を見つめなおす意味においても、別席を運ばせていただきたいと思います。

後継者の育成

 後継者の育成については昨年と同様ですが、

『続いてこそ道』とお聞かせ頂きますように、この信仰は、自分の代だけで終わるのではなく、子や孫、ひ孫にと、この教えの結構さありがたさを伝えていくことが、子や孫の幸せにつながり、ひいては生まれ変わる自分の幸せにもなるのです。

 最近ともすれば、子や孫に信仰の話はしにくく、また拒否反応をあらわにされる場合もないとはいえません。

 そんなとき『わからん子供がわからんやない。親の教えが届かんのや』という神様の言葉を思い出します。これはわたしたち人間全体に対する神様のお言葉ですが、親の慈愛というものの深さと広さを思わずにはいられません。

 子供や孫に信仰が伝わらないとき、もう一度このお言葉を思い出して、自分の信仰をまず振り返りましょう。私はそのときこんな振り返り方をしてみたらどうかと思うのです。

 一つは、自分の何が、信仰によってかわったかということです。健康になったとか、事情が治まったというような目に見えることももちろんあるでしょう。しかしもう一つ目に見えないもので自分の何がかわったかということも大事だと思います。今までこんな話を聞いたら必ず腹を立てていたのが立たなくなったとか、あたり前と思っていたことをとても喜べるようになったとか、果たして信仰前と信仰後の自分の内面で一体何が変わったかということを、しっかり振り返っていただきたいと思うのです。そして次にはその心が変わったという事を伝える努力をどれだけしてきたかということです。

 私たちは、ややもすれば病気がよくなったり事情が治まったりという現象面だけの御守護に目が行って、その御守護をいただいた後の自分の心を変えていくことを忘れがちになります。いわゆる御守護のもらいぱなしになってしまうことがよくあります。

 「我が身かわいい」という人の心を「人をたすけさせていただきたい」という心に変えることが神様の目的で、その目的のためにお見せいただいた病気や事情なのですが、病気や事情を御守護いただくと、人間というのは神様の本来の目的である心を変えることなしに、「事情や病気をたすけてもらってありがたい」だけで終わってしまうことも多いのです。そうすると子供や孫に信仰を伝えるときも、必然的に「信仰しなければ病気になるぞ」とか「こんな事情が起こったのもおまえの信仰が足らんからや」といった脅迫まがいの信仰の強要になりがちです。これではなかなか信仰を伝えることは難しいように思います。

 そうではなく、「自分はこの信仰のお陰でこういうふうに思えるようになった」とか「こんなことでもこんなふうに喜べるようになった」といった自分の心をかえていく努力をし、その喜びを伝える努力が、信仰を子や孫に伝えていくことになるのだと思うのです。子や孫に「信仰を伝える」のではなく、『信仰の喜びを伝える』という『喜び』という言葉の意味はそのことを言っているのだと思います。

  諭達第一号で真柱様は、『心機を一転して』とお聞かせいただきました。心機を一転するということは、軌道を修正するということです。軌道を修正するには、現在の自分の位置を知らなければ修正のしようがないのです。

 そのためにはまず自分自身を省みることから始めなければなりません。自分がいまどこにいて、何をしているのかということを再確認することが、その第一歩なのです。

 もう一度、自分たちが何の為にこの信仰をしているのか、そしてこの信仰をして自分の何が変わったかということをしっかり掘り下げることから始めなければならないと思うのです。

 新しい神殿が、深く掘り下げた基礎の上に建っているのと同じように、私たちの信仰もこの大きな旬にもう一度深く掘り下げた基礎のうえに立て直させていただくことが、神殿普請というこの大きな形の普請に添えるべき私たちの心の普請であらねばならないと信じ、その努力をさせていただくことを、お互いの新年の心定めとさせていただきたいとお願いして新年のご挨拶とさせていただきます。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。