年頭ごあいさつ 165 

 新年明けましておめでとうございます。

 立教百六十五年という新しい年の幕開けです。

昨年も教会のうえに、多大なご尽力をいただき、誠にありがとうございました。
今年も年頭に当たり、思うところを述べまして新年のごあいさつとさせていただきます。

一、昨年を振り返って」

おかげさまで私達は、昨年も大過なく過ごさせて頂きましたが、世上では大過なくとは言いがたい様々な出来事が起こりました。

 特に昨年九月に起こりましたアメリカでの同時多発テロに、世界中が震撼いたしました。

 昨年私は年頭あいさつにおいて、幼児虐待を例にとって、「なぜそんなむごいことができるのか、わからないとしか言えないような残虐な犯罪が、増えてきた」と述べ、それは、「人間としての生きる共通の目的の喪失が、その原因の一つなのではないか」と、述べました。

そして、「私たちは、まるで言葉の分からない異邦人同士となったかのようです。」と、続け、「それはまるでバベルの塔の崩壊をみるようです」と、書くつもりでしたが天理教の会報に聖書からの引用を入れる不自然さを考え、その言葉を削除いたしましたが、今から考えれば、バベルの塔の崩壊のように、国際貿易センターが倒れ、問答無用のアメリカの報復作戦が始まったことは、非常に象徴的なことのように思います。

二、言葉の否定

元始まりのお話の中で、『六千年は智恵の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込み』と仰せ頂くように、神様が最後に人間に仕込まれたものが言葉であり、神様の望まれる『よふきぐらし(陽気暮らし)』に、言葉を使って会話することは欠かせないものです。人間同士の相互理解は言葉を介してその思いを伝え合うことによって成り立ちますが、テロはその言葉を否定するものです。その言葉を否定したテロへのアメリカの反応が、今も行われているアフガンへの爆撃です。
三千人以上の人を犠牲にしたあのテロを擁護する気は全くありませんが、テロへの報復が今度は問答無用のアフガン爆撃であり、その幾千年も変わらない「目には目を、歯には歯を」の図式に快哉を感じてしまう自分に、なんともやりきれなさを感じてしまいます。
釈超空が戦前
「つつ音を聞けばたのしと言ふ人を隣りにもちてさびしとぞ思ふ 」と歌いましたが、悲しいことに、さびしいと思う人より、楽しいと思う人の多いのは戦前も今も変わらないのかもしれません。
武器のハイテク化が、殺傷という現実を鈍感にさせるように、テレビ等の報道は、私達を観客としてしまい、現場での悲劇を感じなくさせてしまいます。何万発と打ち込まれた中のたった一発の爆弾の破裂の下で、様々な悲劇が起こっています。
            (注)

繰り返しますが、あのテロを擁護するのではありません。しかし多くの人が一瞬の内に死んだあのテロを非難することと、アフガンの空爆を支持することは同じではないとも思うのです。
もう一度あのようなテロが起こることを恐れるが余り、テロリストと同じ問答無用の爆撃をアフガンにしてはならなかったのではないかと思うのです。もしアフガニスタンではなく、ロシアやヨーロッパ諸国にテロリストが潜んでいたならば、あのような攻撃がすぐ行われたでしょうか。もし日本にあのようなテロ攻撃がなされたとき、日本はアメリカと同じようなことができたでしょうか。できないから軍備増強をという話をしたいのではありません。アフガンであるから許され、アメリカであるから許されるという行為が、普遍の真実を持っているとは、私にはどうしても思えないのです。
私達がもっと恐れるべきは、あのテロリストであるよりも、言葉の通じない相手には殺戮しかないというあのテロリストの考え方ではないでしょうか。そしてその蔓延こそを恐れるべきではないでしょうか。
甘い話なのかも知れません。しかしタリバンが敗走したのはアメリカの正義が勝ったのではなく、アメリカの武力が勝っただけです。武力を持っての屈服は、弱肉強食の世界と余り変わりません。しかも人間同士の弱肉強食は言うなれば共食いということになるのかもしれません。

共食いといえば、昨年もう一つの共食いが大きな話題になりました。
あの狂牛病が、共食いで起こってきたことを私達は忘れてはならないと思います。
生産性を向上させるという人間の都合で、同じ牛の肉骨粉を食べさせられるという共食いの中で、狂牛病が起こり、人々が牛肉を食べられなくなったのと同じように、私達は今人間同士の共食いの中で、言葉による人間同士の信頼、たすけあいという神様の思いを信じられなくなっているのではないでしょうか。
   (注) たとえば、米軍による誤爆現場で生き残った幼児のまなざし。ものすごい爆裂音で鼓膜も破れてしまったその       子は、精神に変調を来たし、たえず全身を痙攣させながら声を立てて笑っていた。他のショック死した多くの赤        ん坊や老人に比べれば、その子はラッキーだったといえるだろうか。眼が、しかし、笑ってはいないのだ。血も         凍るような光景を瞳に残したまま、これ以上はない恐怖のまなざしで、頬と声だけがへらへらと笑っているの         である。(辺見 庸 朝日新聞一月八日)

 三、あいづたてやいの不思議

 『おふでさき』千七百十七首の最後の一つ前のお言葉は、
『このはなし あいづたてやい てたならばなにゝついてもみなこのとふり』十七‐十四
「この『おふでさき』をはじめとする神様の話は、合図立てあいが出たならば皆神の言うとおりになってくるのだ」という意味です。
「あいづたてやい」というのは、二つ以上のびっくりするような出来事が現れてくるのを言います。
またおぢばで見せられたことは、世界にも起こるし、逆に世界で見せられたことはぢばでも起こるとも聞かされます。一昨年六月、おぢばのかんろだいがある青年によって倒されました。それから一年後貿易センタービルがアラブの若者達によって倒されました。
その奇妙な符合のほかにも、『おふでさき』にもう一つ不思議な符合が出てきます。
一連の『おふでさき』を引用します。第四号十五から二十二までの七つのお歌です。

にちにちに 神の心は だんだんと上の心に はやくみせたら    四―十五
上たるわ なにもしらずに とふぢんをしたがう心 これがをかしい   四―十六
にちにちに 神のこころのせきこみハとふぢんころりこれをまつなり  四−十七
いままでの うしのさきみち をもてみよ
上たるところみなきをつけよ   四―十八
これさいか みなみへきたることならばせかいの心みないさみくる    四―十九
なにゝにてもせかいの心いさむなら神の心もみないさむなり     四―二十
けふの日ハ いかなるみちと をもうかなめづらし事が みゑてくるぞや  四―二一
だんだんになにかの事もみへてくるいかなるみちも みなたのしめよ 四―二二
大意を私なりに簡単に解釈してみますと、
「日々に神様の心はただひたすら、世界中の人々をたすけたいという心であることを、上、つまりは上にたつ人々に納得させたいが、その上に立つ人々の心は神の心と全く逆のとふぢん〔神様の思いを未だ知らない人々〕の心のままである。   (十五・十六)
日々神がただひたすら急いでいるのは、そのような人々が神様の思いにころっと心を変えてくれることであり、それを待ち望んでいるのである。               (十七)
牛の疫病が流行って次に人間に疫病が流行ったことをしっかり思案して、上に立つ者は皆よく気をつけよ。   (十八)神様のお心、神様のおっしゃることがみな了解され納得できてきたならば、世界中の人々の心がみな勇んでくる。そして世界中の心が勇んでくるならば神もその心を受けてさらに勇み、結構な守護をしてやろう。  (十九・二十)
現在通っている道をどんな道だと心得ているだろうか。神様の心にしっかり添ったならば、本当に思いがけないめずらしい結構な道が見えてくるのだ。            (二十一)
それまでにはいろいろなことが起こってくるであろうが、どんな苦労に見える道も喜んで楽しんで通らせてもらうことが大事なのである。 (二十二)」

四、上の心を神の心に

十八のお歌に出てくるうしのさきみちというのは、当時大和地方で牛の流行病がはやりそれが先触れとなって翌年人間にも疫病がはやったことを具体的には言っているそうですが、『おふでさき』は、その当時に限定されるものではなく、『なにゝついてもみなこのとふり』とお教えいただくように普遍の書であることを考えれば、現在の狂牛病に示された神の思いも推測できるのではないでしょうか。
そして上とは、少女趣味コーナーに引用した百人の村で考えるならば、私達日本人全てを含めた先進国の人間のことになるかもしれません。
そしてそれは勿論、この道を信仰している私達に最も厳しく急き込まれた神様の思いでもあるはずです。
私達は神様のお話を充分聞いています。しかし聞くことと行うことは全く違います。
聞いていながら行っていないことは、この道に対して反対しているのも同じ事だという「おさしづ」もあります。
まず動かせていただきたい。その思いを形に表し、教会として大教会百十周年までの期間、

五百人へのおさづけの取り次ぎ、

毎月四百軒の特別号の配布、

日参累計七千人の達成

という三つの心定めをさせていただきました。「私達が神様に受け取っていただけるものは心だけなのでありますから、せめて来年までに一度はおさづけを取り次がせていただこう、せめてこの天理時報を隣へ、それが難しかったら娘にでもよい渡させてもらおう。そして教会から毎月来て頂いているのだから、せめてそのお返しに一年に二三度ぐらい教会へ参拝させていただこう。そんなだけでもよい、新年に当たって、去年と違う心を定めていただきたいと切に思う。」と、先月の会長の独り言でも書きましたように、今年は一人一人が真剣に動かせて頂く年にさせていただきたいと思います。
  一万回のおさづけの取次ぎが出来たら、それからのおさづけの取次ぎはどんな病気もご守護いただけると、あるおたすけ名人の先生から聞かせていたことがあります。一万回以上のおさづけの理を取り次がれたその先生のお助けは、歩けない人の足の骨がボキボキ音を立てながら伸び歩けるようになったとか、目の見えない人が見えるようになったとか、それこそ不思議なお助けのお話は枚挙にいとまがないほどです。

二つのささやかでおおきな夢があります。

一つは、三名之川につながる全てのよふぼくが、さづけの理を取り次がせていただき、その取次ぎによって本当の意味での神様のよふぼくにならせていただくこと。
  そして、みんなのおさづけの積み重ねによって、先月から神殿に掲げたおさづけの理取次ぎ累計の札が一万人を超すこと。今の調子では少なくとも三十年はかかるかもしれないけれど、その時には三名之川の神殿に参拝しただけでたすかるといわれ、新しい神殿が本当の意味でたすけの道場となるのではないでしょうか。
  この二つの夢が白昼夢ではなく、正夢になることを願い、新年のご挨拶とさせていただきます。 
  本年もどうぞよろしくお願い申し上げます