年頭ごあいさつ 166 

新年あけましておめでとうございます。
旧年中は教会の上にいろ いろとお力添えをいただき誠にありがとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年は大教会創立百十周年記念祭を五月三日に迎える年でもあり、また教祖百二十年祭の三年千日活動の最初の年でもあります。三月から五月にかけては地方講習会も開催されることになっています。全教は、昨年十月二十六日に発布されました『諭達第二号』を基本に教祖百二十年祭に向かおうとしています。
「世上は鏡」とお聞かせいただきます。

今年も昨年一年の世界と教会の動きを振り返りながら、今年一年の私達の通り方を考えてみたいと思います。

 

一、現状

第二次世界大戦後、ソ連とアメリカ合衆国という両超大国の冷戦構造が長く続きましたが、ソ連を始めとする共産主義社会の自壊によって冷戦構造は消失いたしました。

ところが世界は平和になるどころか、大国からの重石が解き放たれたかのように民族間の紛争や、宗教的な戦争といった地域紛争が激化し、二十一世紀に入って世界は安定するどころかますます混沌の様相を見せているようです。

特に昨年になって顕著になったのは、武力を持って解決しても止む無しという傾向のような気がします。パレスチナ問題でのイスラエルの武力鎮圧、イラク問題における合衆国の動向、そして北朝鮮の自暴自棄にも見える恫喝のような外交と、武力やそれに準じた力で問題を解決しようする潮流を感じずにはおれません。

こんな流れの中で国内では特に北朝鮮問題が大きく報じられました。ほん何十年か前は一部から理想の国のように言われた国が、特に昨年は拉致問題がワイドショー等でも連日報道され、理想の国の実状がわかってまいりました。

以前にも書いた事がありますが、共産主義という理念は、それ自体非難されるものではありません。二十世紀の共産主義運動や共産主義国家の創建当時は、それなりの理想もあり理念もあった共同体が、何故このような国になってしまったり、ソ連や東欧諸国のように怒号のうちについえさらねばならなかったのかを、自分たちの問題として考えねばなりません。それは人間の考える理想社会の限界を見るような気がします。

平等の旗を掲げ理想に燃えていたはずの共産主義国家が、あっという間に独裁と一部のもののみが富み栄えるという資本主義国家以上の階級社会に変わり、その独裁を守るためにそれに反対する者達への弾圧に走るようになってしまった全ての原因は、理想を掲げ組織を動かすものが人間という生き物であったということなのだと思います。私なりに言わせてもらえれば「人間という得体の知れない妖怪を御ししきれるだけの力というものが、人間にはないのだということ」だと思うのですが、それは、「結局人間っていうものは、こんなものさ」と投げやりになるのではなく、「結局人間ていうものは、こんなものさ」という思いを根底において、それを認めた上で何かを作り上げるために決して忘れてはならないものだと思っています。

『世上は鏡』とお聞かせいただく私達にとって、この問題は私達の日常の問題でもあるのです。いかに理想が高くても、それを信奉する私達人間が理想どおりに生きているわけではないのです。

『教祖のひながた』を声高に叫びながら最もそのひながたから遠い位置にある教会長(すみません、私のことです・・・・)、世の人々に『なるほどの理』(なるほどと得心し、かつ得心される理 天理教事典)を映すどころか世の人々に「何で信仰してるのに」と疑問を呈されかねない信仰者(すみませんこれも私のことです・・・・)、そういった私達が集まって今のこの世界を作っていることを考えたとき、それは余りにも明白です。

 

二、人をたすける心の涵養

諭達第二号で私が一番感銘を受けた言葉は『人をたすける心の涵養』という個所であります。涵養(かんよう)とは広辞林では、「水がしみこむように徐々に教え養うこと。次第に養成すること」とありますが、「人をたすける心」が、今の自分に現にあるのではなく、涵養しなければならないということをまず私達がしっかり認めることが大事なことなのだと思うのです。しかもそれは、一時に出来るものではなく、ちょうど水がしみこむように、じっくりじっくりと心に染みこませていくものなのです。

人は誰もが人をたすけることにやぶさかではありません。それでは何故涵養などという言葉が出てくるのでしょうか。

先ほども申しましたが、人は人をたすけることにやぶさかではありません。しかしそれはある一定のレベルまでであることもまた事実であります。ある一定のレベルとは、有体にいえば「今の自分の生活を脅かさない程度に・・」ということです。

私達が一番しにくいことの一つは、自分の今の生活を捨てるということなのではないかと思います。いみじくも魯迅が言いましたが「寒さで震える旅人に自分の着ているコートを与えるか、それとも菩提樹の下で全世界の人のために祈るかどちらかを選べといわれれば、すぐさま菩提樹の下で全世界の人々のために祈るだろう。なぜなら自分のコートを脱ぐことは寒いからである」という言葉どおりなのです。

しかし教祖のおっしゃる人をたすけるというのは、自分のコートを脱ぐということなのです。教祖のひながたは、自分のコートを脱ぐことから始められたのです。そしてそれは私達一度コートを脱いだはずの教会長にとっても一番難しいことであります。

私達の心が世界に映るとお聞かせいただくように、世界にはコートさえ脱げば解決する問題が数多くあります。数多いばかりか、今世界で問題になっている様々な問題は、「私達がコートを脱ぐ、今の生活を捨てる」という覚悟さえあれば解決する問題ばかりのように思います。たとえば地球温暖化などの環境問題は、私達先進国の人間が今の暮らしのレベルを何十年か前に戻す決意があればそんなに苦労せずに解決出来るのではないでしょうか。しかし私達がコートを脱げないのと同じように、先進国は生活のレベルを落とせません。私達先進国をかたちづくる一人一人にコートを脱ぐ決心が出来ないのですから、それもしかたのないことなのかもわかりません。 

 コートを脱げといっているのではありません。先ずコートを脱げない自分をはっきりと認めることが大事なのだと思うのです。そうでなければ、自分はいつだってコートを脱げるのだとカン違いしがちなのですから。そしてそれだけですめばいいのですが、そんな人ほどどこかの国や人と同じで、他人にはコートを脱げといいがちなのですから・・・。

 

三、教会の一年

昨年最初のおつとめである元旦祭で申し訳ないことに、おつとめがかなり乱れました。それについての神様の思いを必死で探させていただいていたとき、ある人がその原因について地方の声が聞こえにくかったからと話されました。私は、三名之川は地方の声、つまりは神様の声を聞いていないと言われたようで、その言葉に衝撃を受け、昨年一年はしっかりと神様の声を聞かせていただく努力をする年にしたいと、みんなにもお話した矢先、鷲家のしば小屋が全焼するという節をお見せいただきました。

「鎮火して自教会へ帰って神殿に額づいたとき、二つのことが浮かんできた。

火事がしば小屋であったということ。しば小屋が何の小屋か都会の人や若い人にはわからないかもしれないが、風呂やかまどを炊くための焚き木を入れておく小屋である。鷲家の教会でも今は主に風呂を炊くために使っていたものである。

 私は会長になって最初のあいさつのとき、コーヒーもお茶も出しますから信者さんみんなが来やすい教会にならせていただきたいと話をさせてもらった。初心は忘れてはいないつもりだが、たまに在宅していても、応対は私に用事がない限り妻に(相手も私より妻の方がいいようでもあるが)、大体任せている。神様はその怠け心を叱っておられるのではないかと思った。風呂は旅人にとって何よりのご馳走だ。成人の道という旅を歩いている私達にとって、教会はその旅に疲れた体と心を休める場所でなければならない。「さあさあ熱い風呂にでも入って・・・」という心がお前には欠けているのだと教えていただいたのだと思う。

 そしてもう一つ、会長になって十年余り、三名之川も先代である兄が残した「しば」は、全て焚いてしまった。今積んである「しば」は私の代になって積んだものである。お前の積んだように思っている徳は、、あの「しば」のように一夜の間にも灰になってしまうようなものだとお教えいただいたのだと思う。

厳しい話で、私としては余り信じたくはないが、どうもそんな気持ちが頭から離れない。離れないからにはその悟りもそんなに遠く離れているわけではないと思う。」

 これは、昨年二月号の巻頭言に書いた一部だが、そのことを契機に昨年から今年五月まで、教会として新しいものを買ったり、何か工事をするといったことは一切しないという小さな心定めをさせていただきました。小さな心定めに倍する大きなご守護を数々いただいてきましたが、一番のよろこびはその小さな心定めでも神様は間違いなく受け取っていただいていることをお見せいただいたことだと思います。

 

.新しい年に向けて 

 人生の中で私達は時々神様を見失い、心を悩ますことがあります。神様の声を聞く努力をせずに、ちょうど霧や靄(もや)で自分を見失っている昨年の私のようなときです。しかし節を通しての小さな心定めから、どんなときも神様がしっかり見ていてくださるということを忘れるなと今年に入ってから幾つかの出来事を通して見せていただいたように思います。

ちょうど今、日本も先の見えないもやのような状態なのかも知れません。不況、不景気の波が私達を襲い、人々は相変わらず閉塞感の中でうごめいています。

その中にあって今こそもう一度私達が自信をもって、この道の教えを人々に真剣に伝える努力をする旬なのだと思うのです。そのためにもまず自分がコートを脱げないのだということを自覚すること、そして脱げないならばせめてちょっとの間だけでも新しいコートを買うのはやめようという心になることも大事なのだと思うのです。

そうすれば神様は必ず「本当におまえはその心定めを実行する気があるのか」と聞いてくださいます。ちょうど給湯器の調子が悪くなり、風呂場の蛇口が壊れ、ファックスが使えなくなり悩んでいる私のように、そんなサインこそが神様の受け取ってくださっているしるしなのです。

時期がくれば給湯器も、蛇口もファックスも壊れます。心定めをしていなければ、何故こんなときに次々とと思ってしまうかもしれません。しかし心を定めていれば、不自由さが喜びに変わります。

 

五、世界に

『悪を善で治め、たすけ一条、千筋悪なら善で治め』(明治22年2月7日)というおさしづがあります。

悪を善で治めることは難しいことです。

権威や金や武力で相手を屈服させる方が早道であり、一時は効果的なように見えるかもしれません。そしてそのほうがする方もすっきりするかもしれません。

武力で解決しようという声は勇ましく、人をひきつけるかもしれません。しかしそんな方法で相手を屈服させても、最終的な解決にならないのは、何よりも歴史が証明しているのではないでしょうか。

真に世界を治めるには、たすけ一条、千筋悪なら善で治めとお聞かせいただく方法しかないのです。そんな善の心に少しでも近づかせていただけるよう、今年一年お互いにしっかり親の思いを捜し、実行させていただけるよう努力させていただきましょう。

地球という大きな世界もあれば、隣の家も又世界です。「なるほどあの家は信仰しているから違うなあ」と、世上に映すことの出来るような通り方を少しでもお互い心掛けさせていただきたいと思います。そのことが、  

にちにちにをやのしやんとゆうものは  たすけるもよふばかりおもてる

(日々に親の思案というものはたすけるもようばかり思うてる)

(十四 35)

とおおせ下さる親に一番喜んでいただくことなのですから。