年頭ごあいさつ 168 

新年あけましておめでとうございます。昨年は、教会の上にいろいろとお力添えをいただき誠にありがとうございました。いよいよ今年は、来年一月二十六日に、教祖百二十年祭を迎えるという前年、教祖年祭活動三年千日最終の年となりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。 

 

一、昨年の世界の現状

昨年は天変地異の一年でした。年末には止めを刺すようなスマトラ島沖大地震まで起きました。お亡くなりになられた方に心からのお悔みと、被災された方には一日も早い復興をお祈りいたします。その祈りと共に、こんな大震災を受けた今だからこそ、もう一度この問題について考えなければならないのではないかと思っています。

昨年私は、「大恩を忘れて小恩送るようなことではならんで(34・2・4)」というお言葉を引用して、次のように述べました。

「地球温暖化、オゾン層の破壊、砂漠化等々、今言われている地球の危機は全て私達先進国といわれる国や人が「自分の身体、そして命以上に大切なものはない」と思い、行動してきた結果なのです。

私達の信仰が、病気や事情のご守護に一喜一憂して、かえって本当の親の思い、私達がなすべきことを見失っているのとそれは本当に表裏一体のことなのです。

地球大の大きな話と、一人の人間の小さな話。それは繋がっていないようで決して無関係でないと思います。日本人一人ひとりの生き方の総体が今の日本を形作っているのであるならば、今の日本をそして世界を変えるのは、やはり今の私達一人ひとりの生き方を転換するしかないのではないでしょうか。」と書きました。

地球大の大きな話と、一人の人間の小さな話がいったいどのようにつながっているのかを、今回は更に考えていき、親の思いを少しでも考えさせていただければと思います。地球という大きな話からまず考えていきたいと思います。

 

二、地球という奇跡

 私たちは、地球という奇跡の星の中で生きています。J・E・ラブロックが提唱したガイア理論というのがありますが、彼は地球についてこのように指摘をしています。

「この地球の大気や海の塩分の安定は偶然ではなく生命が自らのために創造し維持している。この地球上の微生物から植物、高等生命体にいたるまで、ありとあらゆる生命が、いちがんとなって、地球環境の保つために働いているのだ。酸素二一%、窒素七九%というのが地球の大気の組成比である。空気中の酸素が二二%になったとする。たった一%増えたにすぎない。どうってことはないと思いたいところだが、そうはいかない。酸素が一%増えただけで、山火事になる危険性は七〇%も増加する、と試算されている。 二五%になるともう最悪で、雷で、すぐに火事が起こり、地上は全て焼け野原となってしまう。反対に酸素が減ったらどうなのか?これも同じで、酸素が二〇%をきると現存の陸上生物はすべて、生きていけないだろうといわれている。

いまの大気成分の濃度はたまたまそうなったわけではない。なるべくしてなったそれ以外にない、絶対のバランスなのだ。化石からでも古代の大気は分析できる。何十億年という間、この比率は変わっていないのである。十億年前の太陽のエネルギーは今と大きく変化しているのに地球の大気の組成はまったく変化していないのである。さらにあるかないかわからないほど微量だが、アンモニアやメタン、アルゴンなどといった希少ガスの組成もぜんぜん変わってない。まさにミステリーだ。」(量子論と複雑系の  

パラダイム H・AKI) 

 

三、地球は神のからだ

私達の信仰では、このことを次のように教えられています。

おふでさきに、

だんくとなに事にても このよふは

神のからだや しあんしてみよ

というお言葉があります。

地球を含めたこの世界は全て神様の身体とお聞かせいただくのです。私たちは銘々『かりもの』とお聞かせいただく身体を神様からお借りして、神の身体である地球に生きているのです。まさに借り物の二乗の中で生存しているということになります。

人間は、神様からの『かりもの』の身体に『心の自由』を許された心を使いながら毎日を生きています。そして、神様は身体を通して人間が心の自由を違う方向に使って結局身を滅ぼすことのないよう、いろいろとお手入れをしてくださいます。

その人間は、神の懐住まいとお聞かせいただく、地球という身体の中で住んでいます。それでは地球を身体と考えるのであれば、その心はいったいどこにあるのでしょうか。

私は地球の心は、地球上の数え切れない生物の中で、考えると言うことを許された人類が、地球という大きな身体の心に当たるのだと思います。

銘々の身体の病気が、神様のみちをせ(道教え)、意見であり、人間が間違った方向へ行かないようにとの親心であるならば、昨今頻発した天変地異も、地球という身体を通して、その心である人類への警鐘なのだと思うのです。

 

四、身上・事情を節とするために

しかし、それを警鐘とするためには、警鐘であるという自覚が必要です。

ちょうど病気が、身上となるためには一つの大きな決意が必要なのと同じことです。病気は必ずしも、身上ではなく、又全てが神様の節になるのでは無いということです。

私は信者さんが病気になられたときに「天理教では、病気のことを身上とよく言うけれど、病気が身上ということではなく、この病気を信者さん自身が身上だと思って初めて身上になるのです。天理教を信仰していない人にとっては、只の病気です。只の病気であるならば病院へ行けばいいのです。もしそれを身上だというならば、病院ヘ行くだけではなく、その病気によって神様は私に何を教えようとしておられるのかということを考えて初めて、病気は身上になるのです。事情も同じことで、この事情を通して何を神様は私に教えられているのか、何を気づけばよいのかということを考えることによって、病気は身上となり、節となるのです」と、よく申し上げます。

病気を身上、事情として節とするためには、それが偶然ではなく、神様の「道教え、意見」と思わなければなりません。

この地球規模の天変地異も、地球活動としてのプレートの移動に過ぎないと考えるのであれば、只の地震に過ぎないのです。そうではなくて、地球の心である人類に対する神の警鐘と考えてはじめて、その神意を探り、節になりうるのだと思います。

 

五、八つのほこり

 私たちは日本で、そして世界で昨年多くの人を突然の死によって失いました。

 スマトラ沖大地震の被害者は既に十五万人を越えています。それに対して又地球規模で支援がなされようとしています。大変素晴らしいことだと思います。

 しかし、人類が突然の死によって生命を奪われる一番大きな原因は戦争です。

 民間人の死を勘定に入れない戦死者だけで、第二次世界大戦では、壱千六百万人近く、朝鮮戦争で百八十九万人、ベトナム戦争で五十五万人、イランイラク戦争で二十万人の人が亡くなっています。

昨年私は、「今言われている地球の危機は全て私達先進国といわれる国や人が「自分の身体、そして命以上に大切なものはない」と思い。行動してきた結果なのです。」と書きました。それは私達の教理でいうならば、八つのほこりにまみれた姿なのです。

『をしい、ほしい、にくい、かわいい。うらみ、はらだち、よく、こうまん』の

八つのほこりと言う教理があります。

国同士を人間と考えるならば、国家間のほとんどの争いの原因が、この八つのほこりに集約されるのではないでしょうか。

国家間の紛争とはそんな単純なものではないとおっしゃられる方がいるかもしれませんが、人間が寄り集まって一つの国が出来るのです。人を離れて国だけがあるのではありません。各国指導者の資質の違いにより、影響に強弱の差は有れ、人と言うものがその構成単位であるかぎり、結局紛争の原因はこの八つのほこりに過ぎないのだと私は思います。

この次々と起こる天変地異は、ほこりの心を積む人類への警鐘なのだということなのでしょうか。

そうだとも言えるし、そうでないとも言えるのではないかと思います。そうだと断言できないのは、それが私にとってあまりに他人事だからです。

 

六、お前は本当に痛んでいるのか

 天変地異の神意を探り、節とする前にもっと根本的な問いを発せねばなりません。それはお前は本当に痛んでいるのかということです。

 おさしづに

「同じ五本指の如く、兄弟の中なら、どの指噛んでも身に応えるやろ」

というおさしづがありますが、そのような意味で本当に身に応えているのでしょうか。

 先日ある人と話をしたことがあります。「お前の最愛の人を差し出したら、

この地震で亡くなった人を百人生き返らせてやろうと神が言ったらどうしますか」という問いに、私は「聞かなかったことにします」と答えました。

 答えを求めている話ではありません。

 しかし、本当に身に応えていないことを人は自らのこととして反省することは出来ません。

人類の話を、私の話に戻すことにしてみます。

 

七、洞窟の定員

私が神様の実在を信じたのは、自分のおさづけの取次ぎの中で「人を助ける心」の欠如を実感した時のことでした。何度か書いたりお話したこともあると思いますし、書けば長くなりますので割愛しますが、それからは結局そのことをひたすら見続ける事が、私の信仰の目的になりました。毎年自分の、「人をたすけるという心」の無さを再認識している巻頭言になっており、何も進歩しないなあと思っているのですが、おさづけの取次ぎの中で、自分の「人をたすける心」の無さということに打ちのめされていた頃、次のような文章を読んで救われた気がしたものでした。

それは、井上昭夫先生の「世界宗教への道」という本の中の一節でした。再掲します。

「自己の関与する洞窟にある家族の一生命の死に、魂を揺さぶられるような悲しみを憶える人間は、自己の外にある数十万の餓死者に一滴の涙も流し得ない存在でもある。

神の子であるべき人間にとって、この驚くべき冷淡さは何故なのか、という奇妙で、しかも非常に宗教的な問いは、脳というものが一個の人間をとりまく環境の中でのみ生存することをたすけられるようにつくられていて、それ以上の大きさをとり扱うようにはできてはおらぬという、ごく単純な生物学的理由でもって明確に答えられる。」

子供のために引き返して自らも命を落とされた被災者の話を報道するテレビを見ながら、先日も子供たちに「お父さんはそのまま逃げると思う」と断言されて、自分の洞窟はまだ定員一人かとあらためてショックを受けている私ですが、この話を読んだとき結局自分の洞窟をどれだけ広げるかということが、私の人生の目的なのだと思ったことも事実です。

 

八、洞窟の拡張のために

洞窟の拡張を目指して二十年余り、洞窟は相変わらず定員一人のままなのかもしれませんが、拡張しにくい原因と、拡張の手段はおぼろげながら見えてきました。拡張しにくい一番大きな原因は、結局は拡張することのメリットを感じていないということに尽きるのではないかと思います。「ごく単純な生物学的理由」の枠組みを一歩も出ていないということなのです。それは言い換えるならば、神様が人間に与えられた負?の特性、八つのほこりの呪縛から一歩も抜けていないということなのです。

国同士の紛争が八つのほこりにまみれているのと、それはまったく同じです。まさに世上は鏡なのです。

 

そんな私でも、会長という職についてちょっと変わったことがあります。涙の量や、魂の震えの量は、人によって違うのは残念ですが、会長という職が洞窟の大きさを少しは広げてくれたようです。そしてそれはどこまでその人に関わったか、言い方を換えるならば、どれだけおさづけに通わせていただいたかによるような気もします。その人に本当にたすかっていただきたいと思ったとき、その人は私の洞窟の一員になってくれるようです。

おさづけの取次ぎによって自分の洞窟の小ささを知り、それを広げる方法もおさづけの取次ぎしかないというのは、私にとっては大変不思議な符合を感じています。

 

九、突然の死

先日病院に勤めるある友人からこんな話を聞きました。「病室から大きな泣き声が聞こえるときは、若い人が死んだ時や。老人が死んだときは、静かなもんや」どこまでが老人なのかは難しいところですが、ちょっとわかる話です。でもいろんな意味で怖い話です。

地震や大津波のような天変地異が、人に衝撃を与えるのは、大勢の人が一度に突然の死に遭遇するからです。突然の死ということが私たちに割り切れない思いを与えるのです。

突然とは、どのようなことを言うのでしょうか。そしてその割り切れない思いはいったい何故起こるのでしょうか。

老齢になったり、あまりに長く病んでいたら、死もある程度必然として受け取ります。若ければ若いほど、突然ということになり、割り切れない思いも起こってきます。平均年齢を越えると死は身近にはなりますが、それでもその人にとって死はいつでも突然なのではないでしょうか。

その人にとって一番大切なことは、死も、そして誕生も、自分の思い通りにはならないようです。

そう考えれば突然かそうでないかを決めるのは、残された者が判断しているということになるかもしれません。(このことについてはいずれもう少し考えてみたいと思っています)

 

十、終わりに

ここで止めてしまうと誤解されるのではないかと思う気持もあるのですが、疲れてきました。(昨年は八人の人が「みたらし・みずようかん」と言ってくれましたが、今年も同じようにさせていただきます。但し二月二十日締切です)

最後に四年前の年頭挨拶より一部を再掲して、今年の長い年頭挨拶を終らせていただきたいと思います。

「元の理で明かされたように、人間としての形の完成が九億九万九九九九年かかったのであるならば、心の完成も九億九万九九九九年かかる遥かな旅路への新しい出発なのです。

 そのことを自覚し、心の完成を人類の新しい共通の目的にすること、私たちが、形の上での成人の時『九十九年たって皆出直してしまうことを三度繰り返し、その後八千八度(はっせんやたび)の生まれ更わりを経た』後、ようやく今の人間にまで成人したのと同じように、心の成人も簡単にいくことではないと思いますが、信じ、実行することが、この世界を混沌たる泥海から救う唯一の道なのです。」

 私は、自分の心の完成は、何千回もの出直しを繰り返さねば無理だということだけは、今生で自覚することができたように思います。

私たちはいつもご心配くださっている教祖を傍らに、遥かに遠い成人への道を歩いているのです。死は、長い道中で、旅人が旅館で宿泊するように、昨日のことを憶えていない宿泊に過ぎないのです。そこには突然の死も、無念の死もありません。魂の休息なのです。魂はやがて、その到達した場所からもう一度歩き始めるのです。

自らの洞窟さえ、なかなか広げられないものが大層なことを申し上げました。

しかし自らの洞窟を広げることが、この世界を変えることなのだという思いをもって、今年一年通らせていただきたいと思っています。お読みいただきありがとうございました。