年頭ごあいさつ 169 

 

新年あけましておめでとうございます。昨年は、教会の上にいろいろとお力添えをいただき誠にありがとうございました。いよいよ今年は、教祖百二十年祭の年。本年もどうぞよろしくお願いいたします。 

昨年は、我が教会にとっても年始早々西林、西村両役員の出直しという厳しい節が起りましたが、その節を通して「出直した方々の代わりをさせていただきたい」と、何人かの方々が一層教会に足繁くひのきしんに来てくださったり、夕づとめにも今まで以上の方が帰ってくれるようになりました。真にありがたく嬉しいことでした。

毎年長い長い年頭の挨拶をさせていただきますが、年頭の挨拶に書いたことがその年に起ってくるということが続いています。それで今年は出来るだけ短く、そして良い事しか書かないことにしました。

今年は教祖百二十年祭の年です。

今年は今まで以上に、しっかりと今を喜ぶことを目標に通らせていただきたいと思っています。

今までなぜもっと今をしっかり喜べなかったのかという原因を探りながら、そのことについて少し考えてみたいと思います。

 

一、こんなことをしていては・・・。

以前から私は、こんなことをしているとこんな風になるという因果論のような考え方があまり好きではありませんでした。もう少し有体に言えば、「そんなええかげんな信仰ではえらいお手入れをいただくで」というような言い方、もしくは考え方です。(私がええ加減な信仰であるという深層意識がそう思わせているのではという意見は、抜きにしてのことですが・・・・。)

それは確かに一面の真理を含んでいるとは思うし、また信仰がより進む上には有効な手段と思いますが、どうも自分の気持の中でしっくりいかないのです。こうしなかったらこうなってしまうのではないかという思いは、今を素直に喜ぶことを妨げ、先案じの心を起こすような気がします。 

 そんな時次のおさしづに行き当たりました。

 『前略  皆めんめんに拵えるは、理を以て皆拵(こしら)える。こうせんさかいにこうなる、どうせんさかいにどうなるという理は、こら無いで。 後略 』     明治二十六年十月三十日

「何事も皆、銘々が自由に使うことを許されている心の理によって、銘々が拵えていることである。こうしなかったからこうなる、どうしなかったからこうなるということは無い。」という意味だとある先生にお聞かせいただきました。

私の都合のいいように解釈すると、教祖は、人間は陽気ぐらしをするのを見て、神も共に楽しみたいと思し召されて、親神様は人間を創造されたとお教えいただきました。そうであるならば、人間は陽気ぐらしをするために生まれているのであり、今この時点で陽気ぐらしが出来るはずなのです。そして今を喜んでさえいれば、神はこうしなかったからこうなったというような、消極的な意味での罰(天理教にはもちろん罰という教えはありませんが、適当な言葉が見つからないので)などないと言うことです。もちろん積極的にこうさせていただきますという思いは大事だということですが・・・。

 

二、明日のために耐え忍ぶ

宗教の多くは彼岸での幸せを約束し、そのために今を耐え忍ぶことを教え、その苦行が守護へとつながるのだと教えました。しかしそのことを強調するあまり、今があまりにもおざなりになっているような気がするのです。

そしてそれは宗教だけに限らず、世間の考え方としても定着しているようです。その象徴的な言葉の一つが「早く」という言葉です。「早く」とは、今を楽しむための言葉ではなく、次への準備を促す言葉です。

今若いお母さん方が子供に言っている言葉の中で一番多い言葉は、「早く」という言葉だと聞いたことがあります。

そういえば私も子供がもう少し小さかったとき、「早く、早く」を連発していました。「早く起きなさい」にはじまって「早く食事をとりなさい」「早く学校へ行きなさい」「早く宿題をしなさい」そして止めは、「早く寝なさい」ということになります。何をそんなに急いでいたのでしょうか。早くという言葉には、今を楽しむものは一つもありません。今の時間が次へのステップでしかないとしたら、いったいいつになったら早くは終わるのでしょうか。老人になってさえ「早くお迎えがきてくれたらいいのに・・・」なんて最後まで言っているのでしょうか。

早くが結局、いつになっても来ない未来のための掛け声に過ぎないのと同じように、陽気ぐらしも、今ここにある現実ではなくいずれ来る未来であるならば、いつまでたっても陽気ぐらしは出来ないことになります。

 

三、比較するという落とし穴

陽気ぐらしとは、陽気ぐらしをするための艱難辛苦の後に来るものではなく、今この時点でするべきものなのです。

そしてそれは私たちが御守護というものをはき違いさえしなければ、最初から充分に与えられているものなのです。

世俗的な御守護、現世利益というものと、教祖のお教えくださる御守護が違うものであり、私達信仰者がその違いを明白に分別せずに、願う時には現世利益を、叶わなかった時にはそんなものを求めているのではないとごっちゃにしているところに今を喜べないという問題の最大の原因があるような気がします。教祖のおっしゃる御守護について象徴的にお教え下されているお話が教祖伝逸話篇にあります。

長者屋敷というお話です。

『 教祖が、桝井キクにお聞かせ下されたお話に

「お屋敷に居る者は、よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、と思うたら、居られん屋敷やで。

よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、とさえ思わなかったら、何不自由ない屋敷やで、これが世界の長者屋敷やで。」と。』

 この長者屋敷という逸話篇のお話は、私たちが考えている長者という概念を真っ向から否定します。教祖はこの逸話で何を私たちに教えようとされているのでしょうか。

 よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたいという時のよいか悪いかは、比較してはじめていえることです。いくつもの着物があってその中のよいもの、あの家と比較してよい家というように、何かと比較してはじめてこちらがよいとか悪いとかいえるのです。それに対して、後段はそのことさえ思わなかったら、つまりは何かと比較をせずに、今のあるがままを喜べたら、それが何不自由ない屋敷であり、長者屋敷だとお聞かせいただくのです。

比較は、あの人よりという他人との比較だけに限りません。去年の私よりという時間の中での比較もあります。

先程の早くという言葉の連発は、時間の中での比較という呪縛にはまっているということになるのかもしれません。

比較の中での良い悪いは、「よくにきりない泥水や」と仰せいただくようにいつまでたっても切りがありません。

その比較の泥沼から抜け出るということさえ出来たなら、今自分は長者屋敷に住んでいる、つまりは陽気ぐらしが既に与えられていることがわかるのだとお教えいただくのです。

 

 今年は短めにと書いたわりには、やはり長い文章になってしまいました。

 今を喜ぶということを今年の目標にしたいと書きました。そして長々と書いているうちに、今を喜ぶということは、要は今生きていることを感謝するか、それとも今生きていることを不足と思うかという違いなのかと気づきました。

そう書いたら、十行ぐらいで終わったのにと言ってはいけません。

その結論を導くために結局何日もかかったのであり、それこそが一番大事なことに違いないのですから・・・。