親子・子育て

 

人のため                             

 人のために祈ったり、人のために何かをさせていただくということは難しいことだ。

 しかしいつも誰かを念頭において祈ることによって、自分が変わらせていただけることがあるのだ。

 そのことで一つおもしろい体験をした。

 先日の大教会百周年に子供達にもお供えをさせた。といってもまだお供えの意味もよく分からないだろうと思って、余り説明もせず彼らの虎の子を全部出させた。長女はあまり文句も言わなかった。次男はお金の価値がまだ分からない。しかし長男はすこぶるてこずった。もう少し分かるように説明をしたらよかったのにと、今となったら反省しているのだが、そのときは最後は「この大事なときにお供えもできんような子はもう教会の子ではない」と言って最後には親の強権発動までした。(「私の子ではなく教会の子ではない」といったのは私の子であるならばお供えしたがらないのは因縁として急に説得力がなくなるからである)

 閑話休題(それはさておき)その体験は傷となって、他系統の神殿普請を見たらあの教会は百周年にお供えしてないのでずるいだとか、何かのおりには言い出すので少し閉口した。

 百周年もおわり、こどもおぢばがえりの季節がやってきた。二人の子供たちが自分たちでチラシをつくって勧誘しだした。そしておぢばがえりの前日、明日の予報は雨、台風の接近までも告げている最悪の予報であった。「あしたは雨かもしれないなあ」という一言に子供達の顔にまで雨が降り出した。聞けば「おやさとパレード」の素晴らしさを勧誘のメインにおいたそうである。雨となれば屋外行事であるおやさとパレードは中止。そのとき長男が「そうや、お供えしてこよう」といって神殿に走った。その日京都に嫁いだ姉が帰って来て明日のおぢばがえりの小遣いとして二人にくれた虎の子の二千円をお供えしたのである。

  百年祭のとき、あれだけ苦労して出させたお供えを、今度は自分から神殿に走った。そして「ああスッとした」といって戻って来た長男を見たとき、『わかるようむねの内より思案せよ。人助けたら我が身たすかる』というお言葉の神意の片鱗を見せていただいたように思う。

 百周年の時、あんなに出し渋っていたお供えを、今度は素直に出させていただいた。それは子供達が、人を誘っていたからだと思う。誘った人に喜んで欲しいと思ったからだと思う。人に喜んでもらおうと思うその気持ちが、お供えに対する彼らの気持ちを変えていただいたのだと思う。そしてそれは彼らの大きな財産になると思う。

  最初に書いたように、人のために祈ったり、人のために何かをさせていただくということは難しいことだ。しかしいつも誰かのことを念頭において、祈ることによってかえって自分が助けていただくのだ。156年9月

 

「次男の骨折」

  夏休みも半ばの先月の十日、末っ子の小学二年生の次男が左手首を骨折した。子供が骨折したのは、子供達の夏休みの自由研究として、川の温度差を測りに、私と、子供三人と知人の五人で、川の最上流へ行った時であった。

  私が、駐車のできるところへ車を置きに行ったときに、先に川へ降りようとした次男が、はしご段のような所から足をすべらした。三・四メートルもの高さから落ちたようであったが、顔を少し擦りむいたのと、手の骨折ぐらいですんで、本当に結構だった。

 しかもその骨折には、いくつかの伏線があった。

  十日の朝、ある信者さんが参拝して、よもやま話をしている中で、その方の娘婿が、足を複雑骨折したと聞いていたので、すぐにおたすけに行かせていただこうと最初は思ったのだが、誰にも言わんといてとの話でもあり、午後から知人が一緒に子供達と行ってくれることになってもいたので、後日寄らせていただくことにした。子供の骨折を見て最初に浮かんだのは、神様の御用を後回しにしたからなあという思いであった。

 もう一つ、実は私も小学生のころ、骨折したことがある。私も次男であり、末っ子である。

 私の骨折は、小学三年生の三学期で、右足を骨折したので、三学期はまるまる休んだし、歩けないので、随分家族には迷惑かけたように思う。勉強も、ちょうど分数を習い始めたころで、久しぶりに登校したときに、苦労したことを覚えている。骨折さえなく、ちゃんと学校に行けておれば、東大合格も夢ではなかったのではないかと、自分では思っている。足を骨折し、動けず、食っては寝る生活だったので、肥満気味で、自堕落な生活が習慣になってしまった。もっとスリムで、もう少しきちんとした生活をしていたら、今ももてるが、今以上にもてたのにと、これも自分では思っている。

 次男は左手を骨折したので、ほとんど何の支障もなく元気に飛び回っている。夏休み中の事故だったので、本人には大変不本意のようだが、二学期からの登校にも支障がないようである。(どちらにせよ私の子であるから、東大は無理であるが・・・・・。)

 そして、私が骨折したとき、母親は重病の床にいた。母の葬儀に私は、兄に抱かれてギブスのまま参列したことだけは、今も鮮烈に覚えている。

 そんなことを考えれば、本当に結構だと思う。同じように骨折するのでも、親神様の御守護と、父の信仰のおかげで、随分軽くして戴けたと思う。

 骨折直後、米田先生に診察して頂いている間、先に教会へ帰らせた長男長女は、神殿で十二下りの手踊りをさせていただき、お願いしたそうである。十二下りを完全に覚えている訳じゃない二人が、本を前に、神様の前で、どんな十二下りの手踊りをお供えさせて頂いたのかと思うと、神様に申し訳ない気持ちと、いみじくも長女が「私達二人、やっぱり行き着くところは、天理教やったわ」という言葉で言っていたように、二人なりにいろいろ反省して、結局は神様におすがりしたのだろうと思うと、とてもうれしく、子供達を見直しもしたのであった。「わたしお父さんと暮らして行く自信がない」と、入院が決まり、母親も同行することになった時の娘の言葉には、見直した直後であっただけに、受けたショックも大きかったが・・・・。

 いずれにせよ、骨折という節のお陰でもう一度自分の因縁を悟り、大難を小難にお連れとおり頂いていることを、心より感謝し、家族全員が今まで以上に神様の方へ心を向かせて頂くための、良い旬をお与え頂いたと思う。そしてもっとしっかり、今度は、神様の方へ骨を折る事の大切さを改めてお教え頂いたのだと喜んでいる。                              160年9月

 

「写真に寄せて」

 祖父母と父親の写真、つまり二代会長夫妻と三代会長の写真を、神殿左横の、奥の間の床に飾ってある。奥の間へ入った人々の多くが、その写真を懐かしそうに見る。

  先日も、ある方が参拝に来られ、奥の間へ入るやいなや、父の写真を見、懐かしそうに父の思い出を話し出してくれた。

 「出直してからも、父親に働いてもらっているのです」と、私は、冗談交じりに話していたが、実のところ冗談でもなんでもない。

 私共の教会の古い信者さんはよく、祖母にこう教えて頂いた、父にこう聞かせていただいたと、折々に話してくれる。親会長さんが、あの時おいで下さらなかったら、今の私はない、とまで言って下さる方も、一人ではない。

  私がこの教会の会長にならせて頂くとき、父親がこう話したことがある。

 「祖父母と、わしと、兄ちゃんと、三代が伏せ込ませて頂いた教会や。おまえは何も心配いらん」

 聞きようによっては、傲慢だが、父には、心配な末っ子を勇気づける意味と、たしかにそれだけの裏付けと自負もあったのだと思う。

 『おさしづ』にも『一代は一代の苦労を見よ。長々の苦労であった。二代は二代の苦労を見よ。三代はもう何にも難しいことはないようになるで』(明治二十二年三月二十一日刻限)とある。

 私は今、この教会の会長として、祖父母・父母・兄と三代が伏せ込み、蒔いた種をひたすら刈り取らせて頂いている。三代かかって蒔いた種も、刈り取るばかりでは、いつか無くなるだろう。

 いつ無くなるのか、どれほど減ってきたのか、分かったら対処の方法もあるが、神様の領域のこととて、それもなかなか難しい。それに、刈り取る以上に蒔いているはずはない、ということぐらいは分かっているけれど、自分のどこかに、自分も少しは種を蒔いているのでは等という甘えさえある。

 しかし、もう種籾(たねもみ)にも手を出しているような気もする。先程の『おさしづ』は『なれど人間はどうもならん。その場の楽しみをして、人間というものはどうもならん。その場は通る。なれど何にも「こうのう」無くしては、どうもならんことに成りてはどうもならん』と続く。

 たとえその場は通れ、自分一代は何とかなっても、子や孫の代にどうもならんことになっては、確かにどうもならんことである。父親が私に「祖父母とわしと・・・」と話してくれたように、今度は私が子供に言えるようになるために、遅まきながら、今からでもしっかり種蒔きをさせて頂きたいと思っている。

 そしてそれは私だけに限らないと思う。今いかに自分が恵まれた境遇にいようとも、それはあなたが頑張っただけではないはずだ。親神様の御守護はいうまでもないが、親や先祖の働きによって、今の私があり、あなたがあるのだ。ただそれが目に見える財産として残っているか、目に見えない徳として残っているかの違いなのだ。

 先祖を敬うというのは、彼岸に墓参りをしたり、立派な墓を建てたり、まして豪華な仏壇を買ったりすることだけではないはずだ。先祖の蒔いた種を刈り取るだけではなく、子孫の為に種を蒔くことこそが、先祖を喜ばすことにつながるのだと思う。そして出来うるならば、その種蒔きは、父のように、目に見えない徳として残るような、種の蒔き方をしたいと思う。教会だから無論、一銭の遺産も無かったが、目に見えない父の遺産を、食いつぶしている息子のそれが偽らざる気持ちだ。

 しかし残念ながら、私が出直した後、どこかに飾られた五代会長の写真を見て、懐かしそうに話して下さるであろう方は、今のところまだ無い。

                                                    160年10月