世相

空から恐怖の大魔王が

 いよいよ恐怖の大魔王の季節が近づいて参りました。果たして来月号が出せるかどうか・・・・。

 例のノストラダムスの大予言の話である。「一九九九年七の月、空から恐怖の大魔王が降りて来て云々」という話である。一九七〇年代中頃に最初のノストラダムスブームがあった。私の友人にも書棚にノストラダムス関係の本を数十冊並べているものもいたので、結構本気にしていたものもいたのだと思う。最近の出生率の低下は、その当時子供だった人がちょうど結婚適齢期になり、子供時代にはやったノストラダムスの大予言がトラウマとなり、どうせ子供を産んでも一九九九年にはみんな死んでしまうのだからと思っているのが原因ではないかと笑えぬ冗談を言うものもいる。

 予言といえば、オーム真理教のハルマゲドンが、最近では有名だが、そのオーム真理教事件の影響で、かえってノストラダムスの大予言を信じる人が減ったとラジオで聞いたことがある。一九九〇年には、ノストラダムスの予言を信じると言った人がアンケート集計の結果、四〇%近くあったが、最近のアンケート調査では二〇%を切ったそうである。オーム真理教の事件が人々に終末思想の怖さを教えたのだと思う

 オーム真理教を見るまでもなく、終末思想やハルマゲドンを売り物にする宗教はうさん臭いと思う。

 人間はだれでも自分にまだまだ未来があると思っている。明日があると思うから今日を生きていける。終末思想や、ハルマゲドンを教理に持つ宗教は、そんな人々の心に入り込んで、まず近い将来終末がくることを信じさせ、この信仰をすれば人類の終末から貴方だけは生き残れるとささやきかける。人々の心の中に、人類滅亡のシナリオを入れるために、それぞれの宗教で様々なマインドコントロール、洗脳のマニュアルがある。そのマインドコントロールにかかれば、意志の強さや個人差に関係なく誰でも終末思想を受け入れてしまうそうである。

 終末思想やハルマゲドンを教理とする宗教のどれもが、この信仰をすれば人類の終末から貴方だけは生き残れるとささやきかける。この信仰をして貴方さえ命を投げだせば、全人類は救われるとは教えない。たとえその信仰をして、自分たちだけは助かっても、自分だけは助かりたいという人ばかり残った世界は地獄のような気が私にはするのだが、洗脳された人々には届かない話だ。

 恐怖の大魔王は空から降ってくるのではなく、人々の心の中にあるという予言であるならば、一九九九年の日本の状況は当たらずとも遠からずと言えるかもしれない。

 オーム真理教や、その他終末思想を売り物にして人々の心を人類滅亡という恐怖から支配しようとする宗教。

 人類史上空前絶後とも言うべき豊かな生活の中で、今より少し貧しくなる事の恐怖から、つけを次世代に先送りして発行された地域振興券。その呆れるような政策を提出した政党は、国民の税金を使いながら厚顔無恥にも「地域振興券は我が党が云々」とポスターにまで印刷する始末。対象にされた十五歳までの子供達の多くは、自分の小遣いとしてそれを使い、親のしつけの弱さを露呈するというおまけまであって今の日本社会の断面を見事に見せてくれた。

 親は何を恐れてこんなに弱気になってしまったのだろうか。金があることが勝者の絶対条件である資本主義の世の中で、自分の生き方に自信のないものは弱気にならざるを得ない。

 そんな日本を象徴する事件があった。コインロッカーに子供を入れて、自分たちは買い物に出掛けた親のニュースである。今から数十年前、子供が親の面倒を見るのは当たり前だった。いまから数十年後、親が子供の面倒を見るのが当たり前でない世の中が来るのではないか。コインロッカーに入れたことが事件であって、子供の世話より自分たちの都合を優先したことが事件ではないことに、恐怖を感じるのは私だけなのだろうか。

 

神様のルール
  アメリカのテロ事件の犠牲者の数は数千人といわれる。(九月十四日現在)
             犠牲となられた方々に、深い哀悼の意を表します。その一人一人が、愛す              る夫であり、愛する妻であり、かけがえのない子供なのだ。自らに置き換              えてその悲しみの深さに呆然となりながら・・・。

九月月次祭の祭文の草稿を、九月十日に作った。その中に『親神様には「なさけない どのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので」と、お聞かせいただき、私たち人間が、親神様の人間創造の思い「ようきぐらしをするのをみて 共に楽しみたい」との人間創造の目的から外れていくのをお嘆きくださりましたが、ただ今の世情を見るにつけ、そのお嘆きに対して、お答えすることのできない私たちの成人の鈍さを、改めて申し訳なく思う今日この頃であります。お見せいただく事情や身上の中に込められた神意を自らの問題として、まず最初に会長がどんなことにも揺るがぬ信仰信念を持ち、信者一人一人に写していく努力をもたせていただき、この教会からたすけの渦を起こさせていただけるよう死に物狂いで努力させていただく所存でございます。』という文章を入れた。その次の日、あの忌まわしいアメリカでのテロ事件が起きた。

 十六世紀の戦死者数は、百六十万人、十七世紀には、六百十万人、十八世紀は、七百万人、十九世紀は、千九百四十万人、二十世紀には、それが十倍近い一億七百八十万人に激増する。二十世紀が戦争の世紀と言われる所以である。しかもご存知のように、その多くが非戦闘員つまり一般の人の犠牲者である。

 そして二十一世紀、無差別テロという最も悲しい戦争が起きた。このテロは、犠牲者の数だけではなく、禁断の手を開けてしまったということで人類史上の大きな汚点となると思う。民間人の乗る飛行機を武器にして、民間人のいるビルへ突っ込むというのは、誰も考えないし、考えても、たとえそれが劇的な戦果につながるとしても、してはいけないのである。それは人間としての最低のルールだと思う。赤十字のマークのあるところには攻撃しないという戦争のルールができたように、人間は長い間様々な犠牲を払いながら、人間としての最低のルールを築いてきた。そんなルールが壊れていく。その象徴がアメリカのテロ事件のような気がする。

人間が築き上げてきたルールが壊れていくのは、日本でも顕著だ。それは例えば、親の子供への虐待や、池田市の児童殺傷事件という形であらわれる。無抵抗な者、弱いものへの攻撃という点では、無軌道に暴れまわる子供たちの暴走も同じだ。唯一彼らにあるルールは、自分なのである。自分が楽しければそれでよい。自分はこうしたいから、こうするだけだ。そんな言葉を私たちはどれだけ聞いてきただろうか。しかし、自分から離れ、自分を社会の一員として冷静に見ることが出来るのが、大人ということであり、人類は様々な犠牲を払いながら、大人としてのルールを作ってきたのである。そんな人類のルールが壊れていく。日本でも、そして世界でも・・・。

私たちは神様のルールを聞かせていただいた。

世界は鏡であるとお聞かせいただく。世界に写る出来事は、自らの心の投影だとお聞かせいただく私たちが、世界の出来事と無縁であるはずがない。いやそれ以上に、先に親の教えをお聞かせいただいた私たちの無力が、今のこの混沌を招き、その混沌の中に私たちも、染まっているのではないだろうか。

今こそ私は、ようきぐらしこそが、私たち人類の究極の目的であり、そのために「なさけない どのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので」との親神様の嘆きを自らの心への嘆きとして真摯に受け止め、この神様のルールを自分の中で確立することが、この混迷に立ち向かえる唯一の手段なのであり、自分の仕事であるとしっかり心に定めようと思う。

 

 うそをつけば  

 

昨年から今年にかけて、うそつきが日本に横行している。

雪印の事件と、それに続く牛肉や、豚肉、鶏肉の表示ラベルの張替え事件。

某国会議員と害務省官僚、前大臣のうそをついた、つかない事件。某国会議員は今は悪の権化のようだが、天網恢恢疎にして漏らさずなのか、巨悪はどこかでやっぱり笑っているのか、どちらかわからない。わからないが国民の大多数は、本当のワルが某国会議員だけとは思っていないだろう。

先日若い母親が、「正直者がばかをみているような気がして、子育てをしていて要領よく生きていく子供の方が今の時代いいのかな、なんて思うときがあるのですよ」と、笑いながら話してくれたが、笑えない話である。笑えないのは、それをどこかで肯定している自分がいるからである。

国会議員も県知事も官僚も、ばれさえしなければ何をしてもよいと考えているこの国では、若い人たちにもその風潮は伝わり、敢えて極言すればうそをつくのが文化になってきた。生きるということへの青春時代の真摯な問いかけは、自分自身を見つめなおすことから始まるとすれば、髪の毛の色を変え、眉毛をそり、誰もが別人になりたがっているこの時代に、本当の自分を見つめなおす機会はあまりない。自分への深い洞察のない人生は、生きていくことへの畏敬の念を失い、老いはただの残骸にしか見えなくなってくる。おふでさきに

いまゝでハ とのよなうそもきいていた 

もふこれからはうそハきかんで(十二―百十一)

(今まではどのよなうそも聞いていた、もうこれからはうそは聞かんで)

これからハうそをゆうたらそのものが 

うそになるのもこれがしよちか(十二―百十二)

(これからはうそを言うたらそのものが うそになるのもこれが承知か)というお歌がある。

うそは結局、そのものをうそにしてしまうとお聞かせいただく。ラベルを張り替えた雪印の事件は、そんな神様の言葉を象徴しているのかもしれない。ラベルを張り替えて別物として売ってみても、当たり前だが中身まで変わるわけではない。

自らに問いかけることなくうそをつき通しても、ラベルを張り替えるだけであなたが変わるわけではない。

それを中身まで変わったのと勘違いしてうその人生を続けていれば、その先にあるのは、賞味期限の切れた心まで腐った生の人間である。

神様がうそをつかないのと同じように、時は決してうそをつかないのだから・・・・。165年3月