「棟上げの天気」
五月十七日、仮神殿の上棟をさせていただいた。皆様方の真実によって、誠に結構なお天気のお恵みをいただき、無事上棟を終えさせて頂きましたことを厚くお礼申し上げます。
出来るなら、上棟の日には結構なお天気のお恵みをというのは、欲な話に違いない。口伝にも『人の悪しき、お天気の不足をいえば『おさづけ』の効能の理は、三日間お見せいただきません』とお聞かせ頂くように、「どんな天気でも結構」と思わせて頂かねばとは思っていても、雨天結構、晴天ならなお結構と、心の中では晴天を願っている人間思案の多い会長だった。しかし私の思いに反して(いや心どおりか)、週間予報では、曇り時々雨、それが前日となると、「明日は雨、山間部では百ミリから百五十ミリ」と雨の予想は、エスカレートするばかり。前日、大阪の信者さん宅で、降る雨を眺めながら、「明日晴れたらほんまに奇跡やなあ」と、心細い話をするしかなかった。
私が大阪で降る雨を眺めていた十六日も、教会では上棟の準備の真っ最中。ひのきしんの人も大勢出てくださり、大方建て上げてしまうという事だったのだが、雨で大変だろうなあと心は曇るばかり。 ひのきしんの様子を家に聞こうと思うのだが、「雨で大変や」なんて言われたら、曇る気持ちが土砂降りになると思うと、なかなか電話もかけられない始末である。
意を決して夕方やっと電話をしてみたら、「ほとんど降るか降らんかの雨で、昼の食事の時にはどっと降ってきたが、休憩が終わるころには上がり、予定通り大方建て上げてくれた」とのことで、夜、帰宅して、天に向かって何本もの柱が見事に屹立しているのを見て、明日もせめて曇り空か、今日ぐらいのお天気で収めて頂きたいと願っていた。
しかし夜中には、いったん寝たらめったに起きることのない私でも、目が覚めたほどの大雨で、明日は雨の中の上棟かと、とうとうあきらめてしまうしかなかった。
ところが当日は昨日の大雨がウソのような誠に結構なお天気。そして翌日の十八日は、また大雨。 大雨と大雨に囲まれた晴天の棟上げ、誠に不思議をお見せ頂いた。そして十九日から一週間は晴天続き、遅くなっていた屋根屋さんが来てくれた次の日からまた雨が降り出すという、申し訳ないほどのお天気のご守護が続いた。
「隣の家に蔵が建つと、こちらの家では腹が立つ」という人間の真理の一面をついた「ことわざ」が世間にはある。
それに反して、お道は本当にありがたいと思う。信仰という繋がりがなければ、えんもゆかりもない人々が、連日ひのきしんに来て下さり、神殿普請に真実を運んで下さる。山から木を出し製材のひのきしんに、五月のゴールデンウイーク、休日をひのきしんに出て下さり、多い人は五月一杯ほとんどひのきしんに、その大半を費やしてくれた。皆が、心を寄せて忙しい中、ひのきしんに精を出し、ありがとうございましたと言って帰って行く。少なくない額を少ないですが普請の足しにと言って運んで下さる。
みな教会の事を、自分の家のこととして考えて下さっている。そのような人々の真実が、あの不思議な天気のご守護をいただいたのだ。そのことが何よりもうれしくありがたく思う。
161年6月
神殿の宝
三月一日、神殿より仮神殿に、親神様・教祖・祖霊様を御遷座させていただき、長い間使わせていただいた神殿の取りこぼちがはじまり、三月二十日にはそのほとんどのとりこぼちが終了した。
参拝場をこぼち、神殿もこぼち、蔵もこぼった。信者さん方が、「蔵をこぼったらお宝が出て来ませんかね」と冗談交じりで言っておられたが、蔵をこぼっても残念ながら、ほこり以外は何も出て来なかった。
何もなくなった神殿の跡地に立って、何か無性に申し訳ない、寂しい気持ちがした。
現神殿には、昭和初期に移ってきた。もちろん買うと言ってもお金も無く、大変苦労したそうである。最終的には、教会の土地ととりこぼった古い参拝場を購入し旧神殿を建てるために、何人かの役員さんたちが、自分の土地屋敷を銀行の抵当に入れてお金を借りてくれたと聞く。今以上に教会も信者さんも貧しいときである。借りても返せる当てもあるようなないような時代である。そんな時によくぞと思う。そんな思いの込められた神殿を、私のようなものの一存でとりこぼってもよかったのだろうかと、何もなくなった跡地に立って申し訳なくなってしまった。
この神殿で泣き明かしたことがありますという信者さんがいる。この場所に親会長さんが座って長いお話を聞かせていただき、生きる力をいただきましたと話す信者さんがいる。この神床に立たせていただいて初めて手踊りをさせていただいた時のことは忘れられませんと語る信者さんがいる。 そんな人々の思い出のこもる神殿をこぼってしまって取り返しのつかないことをしてしまったのではないかとさえ思った。
そんなことを思いながら何も無くなった跡地に立っていたその時、ふと教祖の事を思い出した。
立教以来、教祖は『貧に落ち切れ』とのお言葉通り、教祖の嫁入り道具を手初めとしてさまざまな物を人々に施され、ついには中山家の母屋もとりこぼつことになったのである。近郷に豪農として鳴り響いていた中山家の象徴である母屋をとりこぼつとき、教祖は『これから世界のふしんにかかる。祝うてくだされ』とおっしゃられ、酒肴を出され、人々は「こんな陽気な家こぼちははじめてや」と言い合ったとお聞かせ頂く。史実はこれだけを伝えるのみだが、そのときの教祖のご家族の気持ちはどうであったろうかと思うとき、わたしは何ともいえない気持ちになる。『これから世界のふしんにかかる。祝うてくだされ』と、いくら教祖が申され、そうと信じてはいても、世間からみれば豪農中山家の零落の象徴である母屋とりこぼちとしか写らなかったと思う。ましてやまだ封建的な家制度の残る明治初期である。家族にとって家の没落のつらさは、今の私たちの想像以上ではないだろうか。その中を教祖は、『水を飲めば水の味がする』と子たちを励まし通られたとお聞かせ頂く。
その『ひながた』を頼りに、わたしたちの先人たちが、全ての財産を捨てて道一条となり、今世界に一万七千余りの教会となって結実した。三名之川分教会も届かないながらその一つだ。
そして今、私共の教会は、新しい神殿を建てさせていただくことになった。
蔵に目に見える宝は無かったが、先人たちが家屋敷を抵当に入れてでも新しい広い場所へ神様をお移り願いたいと思った人々の真実は、神殿に込められた目に見えない宝として、新しい神殿となり結実する。そしてその宝は、わたしが父親にいつも聞かされて来たように、三名之川分教会という教会が存続する限り、会長から会長へ、信者から信者へ語り継ぐべき宝となるであろう。
今この神殿普請という大きな旬に立ち会っっている私達一人一人も、先人たちが残された宝の上に語り継がれるであろう宝を伏せ込ませていただきたいと思う。
一生に一度の
先日「一生に一度」という言葉を久しぶりに信者さんの家で聞いて大変懐かしく、そしてうれしく感じた。
私が子供の頃、親に何かをねだる時よく「一生(いっしょう)に一度のお願いやから」と言っていた記憶がある。何かをねだるときにはいつもそう言っていたのか、「おまえの一生はいったいくらあるのや」と親に言われて結局いつも願いはすべて却下されていたように思う。それが私だけの習慣だったのか、その当時の子供の常套句だったのかは今となっては分からないが、少なくとも私の友達の間ではよく使っていたのではないかと思う。振り返って最近子供にそんな言葉で何かをねだられた記憶はない。一生をかけてねだる程のものが無いのか、買ってくれるはずがないと最初からあきらめているのかそれは知らないが、自分が「一生に一度のお願い」を連発していたころが、子供なりに自分の一生というものを感じ始めた最初なのかなあと考えることがある。もちろん子供のことだから深く考えたわけでもなく、自分もいずれ死ぬということぐらいをおぼろげに知った程度であったように思うけれど、それでも漠然と一生のはかなさと、はかなさ故の大切さも感じ初めたのもそのころだと思う。
そんな私だから久しぶりに「一生に一度」という言葉を聞いて、思わず懐かしい子供の時代に引き戻された気持ちがした。しかも私の子供時代の「一生に一度のお願い」と違って、その信者さんの「一生に一度」はもっとうれしいお話であった。
「わたしが教会の神殿普請に会わせていただくのは、恐らく一生に一度の事だと思う。そう考えると本当にすごいことなんだなあと改めて感じています。この一生に一度の慶事にあわせて頂いたのですから一生に一度の大きな心を定めさせて頂きたいと思います。」とのことだった。
三名之川分教会の神殿普請は私にとって一生に一度の大きな出来事であることは間違いない。
それは信者さん方にとっても、もう一度神殿を建て替えることは今おいでになる信者さんの生きている間にはおそらくないであろうという意味で、一生に一度のことであろうと思う。
しかし、教会の神殿普請をその人の人生において一生に一度の慶事と受け取るか、それとも人生の路傍のひとこまとしか受け取れないかは、私が云々できることではない。だから今まで神殿講話やその他の話の中で「一生に一度の普請ですから・・・」とあえて申し上げたことはない。私が出来ることは、この神殿普請を、一生に一度のことと思ってくれる人を、一人でも多く御守護いただくことだからだ。
そして最近一度ならず「一生に一度」という言葉をお聞かせ頂けるようになった。「一生に一度」と言えば「一生に一度のお願い」しかできなかった私に、「一生に一度」といって心を寄せてくれる大勢の信者さんがいる。こんなありがたいことはない。
そんな「一生に一度」という心ある人々の思いが結実して、いよいよ六月二十日には新神殿上棟の日を迎えさせていただくことになる。
前々からお願いしているように、この上棟の日を神殿普請の大きな一里塚として、この日を吉祥に精一杯の真実をお寄せ頂きたい。
他人事ではなく、私たちの教会の神殿をつくらせていただくのだという心を一人でも多くの人と共有させていただきたい。そしてそれが私たちの一生どころか、生まれ変わり出かわりする『たましい』への大きな伏せ込みとなるのだということを、今改めて心より皆様に伝えたいと願う。
これが私の子供時代から数えれば数十回目の一生に一度のお願いである。
神殿上棟に寄せて
立教百六十二年、六月二十日。
朝からの梅雨空が『おつとめ』をさせていただいている間に見事に晴れ上がり、抜けるような青空の下で、『よろづよ』の歌を歌い、皆で紅白の綱を引きながら棟札を上げさせていただくことができた。誠にうれしく心よりお礼申し上げます。
そして共に納めさせていただいた「神殿上棟名簿」の箱書きに私は次のように書いた。
神殿上棟に寄せて
私達は、立教百六十一年三月二十六日理のお許しを戴き神殿普請に取り掛かり、本日、親神様・教祖の大きな御守護の下、無事上棟の日を迎えた。
三名之川につながるよふぼく信者をはじめ、大勢の人々が心の普請を合言葉に、それぞれ真実の心寄せを頂き、結構にご守護いただいたことは望外の喜びであり、ただありがたいの一語に尽きる。
ここに三名之川分教会新神殿建築という大きな節目に会わせていただき、形と心の普請に、共に真実を尽くさせて頂けた人々の名を記し、神殿普請上棟の日に寄せて棟札と共に納める。
立教一六二年 六月二十日
この箱書きの文章通りに、大勢の人々の真実によって昨年の仮神殿の普請にはじまり、旧神殿取りこぼち、そして新神殿上棟と神殿普請は一歩一歩進んできた。しかし前にも書いたように、神殿普請の目的は神殿を建てることではない。『形の普請に先行する心の普請』とお聞かせ頂くように、自らの心をもう一度振り返り、お教えいただく教理に果たして自分の心は適う心遣いをしているかと、心の中を再構築することが今一番大事なことなのだと思う。
初めてこの村に教えが流された明治後期、鷲家分教会の萩原初代会長は役場に呼び出され、「この村からは一人の信者も出さぬからそう思え」と半ば恫喝されたと言う。そんな中を小川にも一粒の種が蒔かれ、初代を始め代々の会長・信者の努力によって今神殿建築という大きな喜びを迎えるまでになった。しかしながら建築される神殿の立派さや秀麗さをもし誇る気持ちが私のどこかにあるのであるならば、その信仰は私たちの信仰ではないと思う。
家業を捨て財産を処分して道一条となり、幼い子供達を連れ一家を挙げて、小さな借り家の、神殿とはお世辞にも言えないところに神様をお祀り申し上げ、布教に励んでいた祖父母。そしてそれは一万七千余のどの教会の初代も同じことであった。そして今も日本や世界のどこかでそのように通っておられる布教師たち。『人だすけ』という人間の最も崇高な目的を知り、その目的の為に全てをなげうった人々にとって、一つの小さな結果が神殿普請として現れたに過ぎない。
当たり前のことだが、神様は祭られる場所によって御守護を選ばれる訳ではない。私たちの心に乗って働いて下さるのだ。神殿建築を打ち出して以来、様々なお手入れと、不思議なおたすけが続く。
奇跡とも言うべきその御守護をいただいた人々が皆、「三名之川分教会新神殿建築という大きな節目に会わせていただき、形と心の普請に、共に真実を尽くさせて頂けた人々」であることは決して偶然ではないと思う。
歳月が流れ、世代が移り変わるにつれて、初代の信仰やたすけられた喜びが、残念ながらそのまま子孫に伝わるとは限らない。しかし今、「教会新神殿建築という大きな節目に会わせていただき、形と心の普請に、共に真実を尽くさせて頂けた」と、奉告祭の日に自らを振り返って心より神様にお礼申し上げるために、もう一度私達がそれぞれの初代の信仰を振り返り、自らのものとさせていただきたい。