進み方


 まね  

 信仰にはどうしても跳ばねばならないときがある。最近どうもそんな気がする。それが『節』だとも思う。人々にはそれぞれの信仰の仕方がある。それぞれの入信の動機もある。自分が助けられて信仰に入った場合は信仰に入った時が跳んだ時期だと思う。家がもともと天理教の信仰をしていた場合は多くの人の場合、信仰に入った時期を明確に決めるのは困難だ。

 大きなそして唯一のシナリオがあることはある。しかしそれを知らない人が多いということも事実だ。そのシナリオとは「よふきぐらしをするのをみて神もともに楽しみたい」という親神様のシナリオである。 

 この舞台ではそれぞれが主役である。舞台監督である神は、しかしほとんど何の演技指導もなされない。何事も私達の自主性を最大限に尊重されるからである。だから登場人物は、銘々心どおりに人生芝居を演じておればよいのである。そして銘々の心どおりの結果があらわれ、芝居はさらに進んでいく。

 この舞台始まって以来、様々な名優が出現した。名悪役もいれば、転落の道をやらせたら、天下一品の人もいた。いろんな時代にいろんな人が出て、様々な役を演じながらここまできた。多くの人々を道連れに舞台から消えた人もいれば、今も多くの人の心の中に生きている名優もいる。

 そしてこの舞台の最初の出演者であり、最高の名優がいる。中山みき様つまり教祖である。私達は教祖によって、はじめて親神様のシナリオの存在をお教えいただき、その通り方もお示しいただいた。 しかし、残念ながらそのお教えいただいた通り方を、そのとおりたどらせていただくことはあまりに難しい。いやその通り方を、その教えを信奉するものの中でさえ、忘れかけているものもいる。

 なんでも上達する方法は、その道の達人のまねをすることが余程近道と聞く。 まず、まねをさせていただかねば上達しないのである。そしてそのまねをしたとき、はじめて達人と自分との力量の差に気付く。まねをすることがなければ、力量の差に気づくこともなく、またその偉大さに気づくこともない。

 まずほんの少しでいいから、まねをさせていただこう。歩き方だけでもよい。声の出し方だけでもよい。自分にできることからまねをさせていただこう。

 それがひながたの道を通らせていただくということにつながって行くのだと思う。

 自分の演技に満足して、自分が変わろうという努力をしなくなったとき、肉体

の死よりも早く、その人の精神の死は始まっているというではないか。

155年5月

 

 

跳ぶ

 人生とは賭けである。と言う言葉もよく聞く話だ。なぜ賭けなのか、先が分からないからである。先が分からないけれど、目をつぶって跳ばねばならないときがあるからである。

 結婚がそのよい例だ。いくら相手のことが分かっているように思っても、一緒に暮らしてみなければ分からないことがある。この人と思って、いろいろ考えた後、目をつぶって結婚へと跳ぶのである。もっとおもしろい例がある。出産だ。どんな子ができるか、その子が大きくなってどんなふうに育つか分からない。しかしそんなことまで考えて産む人はいない。考えたって、その子がどんなふうに育つかは思慮の外だ。授かった事を喜び、産ませていただくのである。まず、産むことを決心するのである。

 喜んで結婚し、赤ちゃんが授かったことを喜んでさえいるならば、神様は決して不幸にはなさらない。

 ところで、信仰の話だ。信仰にもどうしても跳ばねばならないときがある。最近どうもそんな気がする。神様から跳ぶ機会を与えてくれたのが『節』だとも思う。

 人々にはそれぞれの信仰の仕方がある。それぞれの入信の動機もある。自分が助けられて信仰に入った場合は信仰に入った時が跳んだ時期だと思う。

 しかし家がもともと天理教の信仰をしていた場合は、多くの場合、信仰に入った時期を明確に決めるのは困難だ。いつのまにか自然に跳んでいるばあいもある。しかし跳ばずに一生を終わってしまう場合もある。神様が理解できたら信仰させていただくと言う人もいた。しかし、人間の頭でどれだけ神様を理解できるというのだろうか。

 

  今百周年という一つの旬、一つの節を迎える。跳んでみよう、今までの信仰から。変えてみよう、今までの生き方を。

 何でも喜び勇んでしたことは、神様はそのまま確かに受け取ってくれるのだから。

 跳ぶ先がどうなのか、跳んでみなければ分からない。しかし跳ばなければ何も始まらない。155年6月