修養科

       科              

 今、修養科の教養掛として、天理の八木詰所にいる。

 修養科というのは、十七歳以上のものなら、国籍、性別を問わず誰でも入学できる、三カ月の心の修養の場所である。今、詰所には、 十八歳から六十二歳までの十人の男女が、団体生活を通して修養に励んでいる。

 修養科全体では、三千人近い人々が、毎日さまざまな意味で、心の修養に励んでいる。

 この中には、いろんな経歴の人がいる。若い娘もいれば、お年寄りの方もおられる。日本人もいれば外国籍の方もおられる。やかましいおばちゃんがいる。髪を染めたヤンキーの兄ちゃん姉ちゃんもいる。実直な人もいれば、サボってばかりの人もいる。

 昔、修養科は、教校別科といって六ケ月間おぢばで学んだ。戦後、修養科と名前が改められ、期間も三ケ月となった。短くなっても三ケ月というのは、長い期間だ。それぞれがそれぞれの、仕事や都合を捨てて、何かをつかもうとしておぢばに帰って来る。

 だからどんなにいいかげんな格好をしていても、やはりどこか真剣だ。

 朝の本部のおつとめの関係で、今月の起床時間は四時である。家では考えられない時間だ。でもわたしも含めて、そうなってしまえばなんとか起きられるものだ。日頃いかに甘えているかが、よく分かる。

 ぢばに寄り集うのはそれぞれ因縁があってと、お聞かせいただく。

  この詰所に寄り集まった人々はそういう意味では深いつながりがあるはずだ。いろんな性格があり、いろいろと摩擦の起こる時もある。

 しかし、ぢばという場所は不思議だ。相手に対して腹の立っていることが、つまりは自分のいたらぬ点のように思えてくる。相手の欠点が自分の欠点のように思えてくる。世間では腹の立つことが、ここでは喜びに変わることがある。ぢばという聖地のはたらきと、何かをつかもうとして修養科に来た人の心が、そうさすのだろう。

 この場所は、今、はやりの性格改造センターのような、押し付けや洗脳で、性格を変えようという場所ではない。

 心の自由を与えられた人間が、人々の真実を見て、受けて、感じて、そして、変わらせられるのではなく、変わるのである。

 『おぢば』で学ぶ、三ケ月。

 この『ぢば』での心を一生持ち続けていられたら・・。そう思うのは私だけではないはずだ。                                      157年7月

 

 

「こんな時に・・を、こんな時こそに」 

  四月より三カ月間、わたしは『おぢば』に滞在させていただいております。修養科の一期講師、第六六〇期五組の組担任として、生活しています。

 ちょうど四十五年ほど前、父親も一期講師としてつとめていた。母のかね子が、姉定代を妊娠中で、母体も弱り、このままでは母体も子供も危ないと医者に言われていたとき、大教会長様より、「一期講師に行かせてもらえ」と、言われたそうである。 母親は以前より身体が弱く、又今は妊娠中で医者からはこのままでは母体もおなかの子供もどうにもならないと言われていたときにである。父親も最初は「こんな時に・・・・。」と思ったそうである。しかし「こんな時に・・を、こんな時こそ・・」に思い返して、つとめさせていただいたのだと、生前よく語っていた。

 去年の暮れ頃、大教会長様より「母親が危ないのを押して、修養科に行かせて頂いたのはお前がおなかにいるときだったかな」とのお話があった。「いやおなかの子供は姉でした」と答えたのに、会長さんの次の言葉は「こんど一期講師行かせてもらえ」であった。こんな時にという身上も事情もない私にとって、はいと返事するしかないが、なんと上手に言われるものだなあと感心してしまった。

 「信者さんにはこう言わなあかんなあ」と軽口をたたきながら、修養科に来させていただいた。お陰で私が預かっている五組の人々はみんな熱心で、本当に頭が下がるぐらい熱心につとめて下さっている。また教会でも、わたしの留守を守ってみんな一生懸命につとめてくださっている。

 ところが、私の方がどうも芳しくない。

 まず風邪が一向になおらない。お陰で寝込むまでには至らないが、来る早々ひいた風邪が、ましになったり加減悪くなったりで、四月二十八日には遂に三十八度四分まで熱が上がり、いよいよ明日はお手上げかと思ったが、おさづけをいただいたりで、翌日は何とか平熱近くまで下げて頂いた。血圧も少し高く、初めての先生業で興奮していることを差し引いても少し上がり過ぎだ。

 四月三十一日の日、毎月二日に帰らせて頂いている「毎月の月の初参り」をしていないのに気づいて、神殿へ参拝し、便所ひのきしんをした後、教祖のところへ行かせて頂いてやっと気づかせていただいたことがあった。

 「こんな時に・・・」という事情も身上もない私が、どんなに結構かということを、 自分の信仰と父親の信仰を比較してみれば、残念ながら父親の方が何倍も真摯で求道的であった。その父親が「こんな時に・・を、こんな時こそ」と心定めて修養科に行ったからこそ、母親も助けて頂き、姉も授けていただいた。あのとき母親が出直していたら、どんなに頑張っても今の自分は生まれてさえもないのである。

 自分が今、「こんな時に・・・」という事情も身上もないのは、私が一生懸命したからではない。両親や祖父母が「こんな中も、あんな中も、そんな中も」通ってくれたお陰なのだ。

  その事を当たり前として通っていたら、今度又、自分や自分の子供が「こんな中も、あんな中も、そんな中も」通らねばならなくなるかもしれない。

 今を喜ぶことが、本当のご守護であると人にも言い、自分にも言い聞かせながら、しかし、本当に今の自分を喜ばせて頂くことはむつかしい。

 今を喜ぶためには、今の自分の姿が当たり前の結果ではないことを、心に銘しなければならないと思う。日々に当たり前に過ごしているそのことが、どれだけ大きいご守護であるかを納得するのは、自分たちの父母や祖父母のことを真剣に振り返らせていただくことが大事である。

 おぢばは『かがみやしき』とお聞かせいただく。三名之川につながるそれぞれが、今の自分を振り返り、「こんな時に・・」と、思うときこそ、神様の一番お喜び下さる時なのだということを、お互いにもう一度しっかり思案させていただこう。                                      159年5月

 

 

「人をたすけて・・・・・」 

 三カ月の修養科生活も終わりました。振り返ってみるとあっと言う間の時でした。

 三カ月間、五十二名の修養科生と過ごして色々と勉強させていただいた。一番ありがたかったことはやはり不思議なご守護を目の当たりに見せていただいたことだと思う。

 修養科第六百六十期五組。それが私の担任した組です。五十二名の修養科生の多くは、それぞれに悩みを抱えておぢばに帰ってきて、そして誰もがみんなそれぞれに御守護を戴いて帰って行った。

 その中にFさんという男の人に付き添われて入学した、Kさんという中年の女の人がいた。精神分裂病と診断され、膀胱炎、メニエール病、etc.病気のデパートのような女性だった。病気のデパートだけあって、仕入れにも熱心で、一つの病気を御守護いただくと、勝手に自分で次の病気を仕入れてくる。一日が元気だったら、次の日には必ず何らかの病状を訴える。Fさんもその熱心さにはお手上げ状態で、本当に病気なのか、仮病なのかわからんといった状態であった。

 別席には私も、最初から九席目まで付き合った。最初の一席目は、途中で座席に横になって寝てしまった。寝るだけならまだよいが、いびきには閉口した。二席目は横にはならなかったが、あいかわらずよく寝た。寝たらあかんと言うと、寝てません、目をつぶっているだけだとおっしゃる。目をつぶって鼾の聞こえているのを寝ているとは言わないらしい。

 このころが、Fさんにとっても我慢の頂点だった。

  Kさんの何を見ても不足の種になる。それも無理の無いことで、Fさんの奥さんが熱心な人で、その奥さんの感化で、信仰を始め、ようやく修養科入学を志すようになった。Kさんはその奥さんが『においがけ』された人で、FさんはKさんとだけは修養科には行きたくないと言っていたのに、種々の事情でKさんの付き添いにならざるを得なくなったという経緯がある。

 Kさんもそのころが一番身上のピーク。ハッピの襟にもフケが一杯といった状態。女の人に男の付き添いだから、あまり立ち入ったことは言いにくいし、Fさんは喫茶店を経営しているぐらいだから不潔さは我慢ならない。そんなわけで、Fさんのすることなすことに腹が立つ。

 「神様はKさんの身上を通して、あなたを仕込んでおられるのですよ」と言って私は、なだめるしか方法がない。「そんなこと言われても、腹が立って腹が立って・・・。」そう言われても、私も同じことを繰り返すしか無いし、実際それが神様の思いでもあるのだと思ってもいた。

 Fさんは不足しながらも三カ月間、一生懸命Kさんの世話どりをされた。

 Fさんの不足が少なくなるにつれて、Kさんの病状も少しづつよくなってくる。

  別席も終わりに近づくと、だんだんおきて聞いている時間が多くなってくる。九席目は椅子に真っすぐ座って一睡もせずに、最後まで聞かせていただいた。

 修養科卒業の前夜、Fさんが奥さんと一緒に詰所までわざわざお礼に来られた。

 晴れ晴れとした顔で、「付き添いをさせていただいて本当にありがたかった」と、ご主人がおっしゃるのを奥さんは横目で見ながら、「この人からこの言葉を聞かせて戴くのが一番うれしい。これからは夫婦で信仰させていただける」と、本当にうれしそうにおっしゃるのがとても印象的であった。

 そして翌日は修養科修了式。式次第が終わって、神殿で修了のお礼のおつとめの後、教祖殿へ参拝し、私たち講師は東回廊でお別れ。その時、Kさんが涙でグチャグチャの顔で私の手を握ってくる。「おつとめがおわり、教祖殿で参拝しているとき、雷のような衝撃が私の全身を貫き、病の根を全部教祖が持って行ってくださったように体が軽く楽になりました。」最後の方は涙で言葉にならない、その横で、Fさんもにこやかにほほえんでいる。

 

 『しんぢつにたすけ一じよの心なら なにゆハいでもしかとうけとる。』(三−三八)

 『わかるよふむねのうちより思案せよ 人たすけたらわがみたすかる』  (三−四七)

というお言葉がある。

 世話どりする人が、助ける人ではなく、世話どりされる人が助けられる人でもない。お互いが相手の人を通して神様からお仕込みいただき、おたすけ戴いているのだということを、思案し心から納得させていただければ、神様はこのような不思議をお見せ戴くのである。

 いや不思議でもなんでもない。私たちは神様にそのように教えられているのである。三カ月間、教典の授業を担当させていただいて、十章にわたる教典の内容はそのことにつきるのではないかとさえ思う。

 しかいそれがまたあまりにも難しい。

  修養科では、今日もこんな御守護が、日常茶飯事のように起こっている。

 それは心が神様の方に向いているからなのだ。日常の瑣事に邪魔される事なく、それぞれの心が真っすぐに神様と向き合っているからなのだ。

 それは又、私たちの信仰の先輩たちの通り方でもあったのだ。『道と世間は裏腹や』とのお言葉通り、世間の常識を忘れ、ひたすら自分の心を神様の定規に合わそうとする努力が、さまざまな不思議なおたすけとして実ったのだと思う。

 今、教祖百十年祭。その旬に花を咲かせるかどうかは、一つ、私たちの心にのみ、かかっているのだ。                              159年7月

 

 

もったいない 

今、詰所で教養掛としてつとめている。修養科生は、十九名、幸か不幸か、三名之川の関係の生徒はいない。

修養科生を見ていると、人間もまんざらすてたものじゃないと、いつも思う。

今回は、私が教養掛として着任するやいなや、風邪を悪化させて緊急入院をする者が出た。ちょうど関係の会長さんや信者さんも入院していたが、神様は手回しがよくて、お陰でほとんど毎日病院へ行かせていただくことができた。お願いづとめの後、甘い物を絶つと心を定めた人もあれば、たばこをお供えした人もいる。神様は早速「試し」をかけられて、翌日にはケーキの差し入れがあったが、かろうじて彼女はその誘惑に勝ったようだ。

修養科は、一生の中でも、一番心のきれいな時の一つだと思う。今だったら朝は、通常四時十五分起床、朝の神殿掃除がある時は、三時過ぎには起きなければならない。朝づとめ、詰所のひのきしんに始まって、修養科での授業、授業といっても学力をつけるためではない、心に徳をつける方法を学ぶのだ。午後からは、ひのきしんや鳴り物練習があり、神殿掃除がなければ、午後三時までには詰所に帰る。四時から詰所の掃除、夕食の後、六時から七時半過ぎまで夕づとめ、お話、おてふり練習があり、九時半には消灯になる。こう書くとだいぶ忙しいようだが、ちょうど修養科生の中の二人の元看護婦さんによれば、今までの仕事と比べれば忙しさは雲泥の差で、熱心な彼女たちは、余った時間のひのきしんに余念がない。

六月入学のお二人はご夫婦で、ご主人が厳しい病気の御守護を願って修養科に入学した。修養科生が夕づとめ後、交替でおさづけの取り次ぎをさせていただくことにした。おさづけを何回も取り次がせて頂いた人もいれば、初めての人もいる。修養科生全員で添い願いをさせて頂く中、一生懸命おさづけを取り次がせて頂く。おさづけの取り次ぎの声も抑揚もみんな違うけれども、助かって欲しいと願う心に違いはない。人前で殆ど声を出すことのないSさんも、私たちの心配をよそに見事におさづけを取り次いでくれた。

修養科は、一生の中でも、一番心のきれいな時の一つだと思う、と先程書いたが、それは、人のために祈り、人のために何かをする時間が、一番多いからではないかと思う。

残念ながら、その一番心の美しくなれる時期を、自分の事だけで費やしてしまう人もいないではない。だれでも自分のことに人生の大半を費やしているのだから、自分の事に費やすのが悪いというのではない。しかしわざわざ人生の貴重な一時期をせっかく都合をつけて来ているのに、いつもと同じ心と行動をすることは、ちょっともったいないかなと思うのだ。打算なく人のために祈り、人のために何かを出来る機会はそう多くあるわけではない。もっといえば、自分を見詰め直す事が、成人の第一歩だと思うから、打算なく人のために祈り、人のために何かを出来る機会を与えて頂きながら、そうできない自分を見つけられたら、もっといいと思うのだ。

そんな時期を自らの怠け心だけで過ごしてしまうのは、心が動かない限り、強制しても仕方がないのかとも思うが、もったいないとは切実に思う。

 

ここまで書いてふと、そんなことをしたり顔でかいているお前が、わしの与えた人生を一番無駄遣いしているではないか、もったいないのうと神様に言われたような気がして、少し反省している昨今なのである。

                                                     164年7月