天理教的考え方

             

道と世間

 「道と世間はうらはら」とはよく使われる言葉だ。天理教の考え方と、世間一般の考え方は正反対という意味である。私のように教会で生まれ育ったものにとっては自明の考え方と思っているようなことでも、世間の人にとっては驚きであるようなことがあるらしい。

 先日もある場所で何げなく言った言葉が相手の人には新鮮な驚きだったようで、「天理教ではそない考えますのか。そう考えたら喜べますわな」といって、悩みが軽くなったと喜んでいただいた。しかしそういうときもあれば、「世間知らず」と揶揄(やゆ)されているときもあると思う。

 道と世間が一番違うのは教祖の『ひながた』についての感じ方であろうと思う。教祖の『ひながた』を一切の教理を抜きにして見てみると、財産を全て失い、夫に先立たれ、長男夫婦にも先立たれ、しばしば警察にさえも拘引される一人の老婆がいることになる。そんな人が近くにいれば世間では「なんとお気の毒な人か」ということになる。

 世間で言う「お気の毒な人」と教祖の違いはいうまでもなく何のためにそうなったかということのちがいだ。『世界いちれつをたすけるために、まず難儀しなければ難儀しているものの気持ちはわからん』と自ら貧のぞん底に落ちられた教祖と、なりたくはないけれどそうなってしまった人とは形は同じでも大違いである。母屋とりこぼちのとき、教祖が『これから世界のふしんにかかる。祝うて下され』と自ら酒肴をだされ、皆がこんな陽気な家こぼちは初めてや」と言われたという逸話にもその辺の違いは如実にうかがわれる。  

教祖のひながたの大きな意味の一つは、地位や財産や、名誉といった目に見えるものに、人間の本当の幸福はないということを具体的に自らが通られることによって、私たちにお示し下さった点にあると思う。そのお陰によって私たちは、幸せが目に見えるものによって、他からもたらされるものであるという世間の常識に組み込まれてしまうことから、かろうじて踏みとどまっているように思う。

 最近自分自身の中に一つの危機感がある。それは『道と世間はうらはらや』がだんだん「道も世間もうりふたつ」になっていくことへの危機感である。最近同じ信仰をしている人に、「だから天理教の人は世間知らずやね」といわれたことがある。道の常識が世界の常識になるより前に、自分たち信仰者の間でさえ、世間の常識が道の常識になるような風潮さえある。

 「入れば出す」というのが世間の常識であるならば『出せば入る』というのが、お道の常識だ。大教会創立百周年に、自分として精一杯させていただいた。今月、いろいろと買いたくてもなかなか買えないものをお与えいただいた。『出せば入る』のである。 そのことはしかし教会に限らない。『神のさしづを堅くに守ることならば、一里行けば一里、二里行けば二里、又三里行けば三里、又十里行けば十里、辺所に出て、不意に難儀はささぬぞえ。後とも知れず先とも知れず、天より神がしっかりと踏ん張りてやるほどに』(明治二〇・四・三)とお聞かせいただくように、神様の心を我が心とする限り、だれにとってもそれが真実である。

 まず私たちは道の常識を自らの真実によって確かめ、自分の常識にすることからはじめなければならない。そしてそうすることによって初めて、道の常識を世間の人に向かって、堂々と主張できるようになると思う。

156年10月

 

 

「心定めが第一やで」

 今年は世界的に、天候不順な日が続く。中国や朝鮮半島の大雨に大洪水、アメリカ等の熱波、ヨーロッパも異常気象と世界的な気候不順のなか、日本も豪雨と洪水に襲われた。

 天気の不順だけではなく、今年は国際的な事件も多発した。インド、パキスタンの核実験。アフリカでのアメリカ大使館爆破事件、その報復のアメリカによる爆撃。日本でも和歌山ヒ素事件やその類似事件の多発。また経済も不順だ。日本の不況に追い打ちをかけるようなロシアの通貨危機、世界同時株安と言われるような底の見えない不況感。

 宇宙船地球号の全体が不協和音を奏でているような底の見えない漠然とした不安感が、世紀末という一つの区切りとあいまって、さらに人々を不安に陥れている。

 先日立花貴さんの本を読んでいると、「哲学が不毛の時代」という箇所にあたった。

 先史以来人間が営々として築き上げて来た価値観の全てが、大きな曲がり角に立っているそうだ。科学万能と思われて来たその科学が一番大きな曲がり角に立っているらしい。浅学無才のわたしにはそのことについて詳しく述べることは勿論出来ないが、この宇宙船地球号の不協和音が簡単なところから出ているものではないことはわかる。

 私達は神様によって御創造いただき、『人間がよふきぐらしをするため』に、心の自由をお与えいただいた。心の自由が『よふきぐらし』の障害とならぬよう、『をしい・ほしい・にくい・かわいい・うらみ・はらだち・よく・こうまん』という八つの『ほこり』をお教えいただき、『ほこり』とお聞かせ頂くように、必ず積もるものではあるが、神様をホウキとして心のほこりを常にはらう努力の大切さをもお教えいただいた。

 心の自由をお許しいただき、知恵と文字の仕込みのお陰で、今の人類の隆盛をみることができるようになった。

 一つの文明が衰退するときは、「その文明が隆盛になった理由が、その衰退の原因になる」というのは、塩野七生さんの説だが、その言でいくと人類の文明も、その発展の基礎になった知恵と心の自由が、今度はその衰退の原因になっているのかもしれない。

 そう考えてみれば、今、個人といわず、民族といわず、国といわず、そして宗教といわず、あまりにこの心の自由を無制限に使い、『ほこり』の心を使い過ぎてはないだろうか。

 個人は利己主義に陥り、民族は民族同士の融和よりも選良意識が優先し、国家はその威信が最優先課題になり、宗教さえ助け合いよりも剣での解決を求めるようになっている。宇宙船地球号の乗組員それぞれが、自己の保身に汲々とし、全体の安全とその目的地を忘れているかのようだ。

 迷路や袋小路に行き詰まった時は、出発点に戻ることが一番簡単で確実な方法だ。人間の出発点は、『よふきぐらしをするのを見て神も共に楽しみたい』という神様の思召だ。一人一人がいくら大きな声を張り上げても、時代の波に逆らうことはできないという人もいる。しかし明治二十年のおさしづに有名な一説がある。『さあさあ月日がありてこの世界あり、世界ありてそれぞれあり、それぞれありて身のうちあり。身のうちありて律あり、律ありても心定めが第一やで』

明治国家から見れば、弾圧されてごまつぶのような存在でしかなかった大和国庄屋敷村の一老婆が、国の掟と教祖の教えに板挟みになった人々に、敢然として言い放ったその言葉どおり、私達の心定めが、全ての基本なのである。明治二十年以降、先人たちがその言葉を信じ努力して来たように、私達ももう一度教えの原点に立ち返り、力みもせず、あきらめもせず、教祖のひながたをたよりに、真剣に通らせていただくことを、私達の心定めの第一歩にしたいと思う。                161年9月   

 

 

 

その先にあるもの

私は仕事柄いろんな人に神様の話をさせていただくが、よく次のような反応に出くわす。

「今日は結構なお話を聞かせていただきました。今度妻にしっかりこの話を聞かせてやってください。」その人が女だったら、今度夫に、親だったら今度子供にだ。教養掛りだった先月もある修養科生から相談があって、小一時間も話した後、「先生、今度主人に聞かせてやって下さい」ときた。「ご主人にも話をさせていただきますが、神様はまずあなたの心の転換をお待ちくださっているのだと思います」と、続けたが、もうその人は聞く気はない。

 事情・身上は道の花とお聞かせいただく。それは実がなるという結果を戴くためには、事情・身上という花がなければならないとも言えるのだ。

教典には『身上のさわりも事情のもつれも、ただ道の花として…・』との一節がある。ただし、先ほどの話ではないが、それを自らの問題として考えない限り、身上も事情もただの病気であり、ただの問題に過ぎない。いろいろな病気や事情に悩むのも、神様がその人の心を少ししでも神様の方向に向けさせたいとの切なる思いから起こして下さるのであり、自らの心への注意として聴くことが出来なかったら、神様がそのことを起こしてくださった甲斐がないというものだ。

そんなことを言っていたらある人がこう言うのだ。「病気が神様からのお知らせとして、世間の人は病気になってもそんなこと誰も思いませんよ」

「そんな心配せんでも、世間の人どころか、天理教を信仰している人だって、そんなこと思うどころか、会長に知れたら、ここどとばかりに何を言われるか分からんと、絶対教会には言わないという人もたくさんいますがな。」と、私はすぐさま返しながら苦笑いをするのだが、残念なことにせっかくの神様からの手紙を、封も開けずに隠してしまう人も多いのだ。これは信者さんよりも、神様は身上の時に厳しい諭しをするのは、しんどの上にしんどをかけるようなものやと厳しく戒めれているのにもかかわらず、ここぞとばかりに諭してしまうこちらの方にもっと問題があるのだが、それはさておき、私は病気と身上は違うのではないかと思っている。病気を神様からの自分宛ての手紙として、自覚したものだけが、病気を身上に出来るのだと思う。神様の手紙を開封もせずに、漫然としているだけではそれはただの病気であって、身上ではない。

それはちょうど、暴走行為を繰り返し、ぶつけては修理にだしているドライバーと同じように、病院という人間の修理工場に修理に行っているだけなのだ。病気を身上にするというのは、自動車の修理の原因が自らの暴走行為にあると気付くのと同じように、その病気の根本原因が自らの何かにあるのだということを考えさせていただこうと思ったとき、病気ははじめて身上になるのだと思う。

今回の修養科でつくづく思ったことが一つある。人間に与えられた能力のうちで、一番大事な能力の一つは、起こってきたことを自分の責任として考えられる能力だと思う。昨今はどうも責任の取れない人が増えてきたが、世間でも、したことに責任を持つというのは、大人である証拠だと考えられてきた。

天理教はその上をいき、身に覚えのないことでも、自分に起こってきた問題は、どんな問題も自らの責任として考えよと教えられている。そして自らの問題として考える事が出来るものだけが見せていただける地平というものがあるのだとも、お教えいただくのだ。