天理教とは

A さ ん へ の 手 紙

  拝啓

 今年の梅雨はほとんど雨が降らずに、水不足が深刻に心配される事態のようです。やはり少々じめついていやな季節でも、降るときにはしっかり降っていただくご守護が必要ですね。それは人生でも同じで、厳しい節もその後の人生を実り豊かにするために必要なものだと思います。ですから今がどんなにつらくても、その今を喜ぶことが一番大事です。

 お礼のお手紙、遅くなって誠に申し訳ございません。

 お送りいただきましたお供は、神前にお供え申し上げ、今月無事通らせていただいたことを、お礼申し上げさせていただきました。

 皆様方、お元気の由で、安心いたしております。私共のほうも、父親をはじめ、皆元気で暮らさせていただいております。

 よく信者さん方に、『会長さんの家族のように、子供達が小さい今が、一番よい時ですよ』といわれるのですが、その時にはなかなかそうは思えなくて、不足ばかりが出てしまいます。

 「今が一番よい時」とは、人間誰しも思いにくいものですね。

 でも考えてみれば、いつも今が、一番結構と思わせていただくことが、信仰の一番大事な点ではないでしょうか。

 神様は、私たちが実際、言ったり、行ったりしたことだけではなく、心で思ったことも全て、見抜き見通され、その心に応じた守護をするとお聞かせいただきます。つまり私たちの心どおりの姿が、今の私たちの姿を決定しているとお聞かせいただくのです。

 しかし、言ったり、行ったりしたばかりでなく、心で思ったことも全てと、お聞かせいただくと、私達は、そうきれいな心ばかりで、日々を通っているとは言えません。そしてそれが因縁となるとお聞かせいただきます。しかもその因縁は、現在生きている時ばかりではなく、前生の持ち越しの因縁もあると、お聞かせいただきます。前生と言われると、これはもう私たちにとって、思慮の外というしかありません。

 しかし、親である神様はその因縁のうち、十ならば十通れとはいってない、十のうちの一つか、二つ。あとは親が替わりてやると、お聞かせいただくのです。

 よしんば、たとえ今の人生が、どんなにつらくても、自分の本当の因縁からいえば、三倍も四倍も結構な人生を歩んでいることになります。

 そう考えて今を喜んで通らせていただくこと、それが『たんのう』とお聞かせいただきます。自分自身の人生をしっかり味わうこと、堪能することが、一番むつかしいことではありますが、又一番大事なのです。

  えらそうなことばかり書きました。自分に言い聞かせているだけのような気がします。それではまたお元気で。                      157年8月

 

              

 

 

「父の日記」

先日、捜し物をしていたら、父の古い日記が出て来た。父は、日記を毎日つけており、晩年「お前に預ける」と、鷲家分教会より大学ノートで、数十冊の日記を預かって帰った。別にどうしろという指示はなかったので、申し訳ないことながら、その日記は蔵でほこりを被ったままであるが、先日出て来た日記は、その時の日記ではなく、父が三名之川の会長時代の日記であった。 父親の達筆というか、読みにくい難しい字をたどっていたら、知らぬ間に時間が過ぎて、肝心の捜し物をするのを忘れてしまった。

 父親は二度、妻を亡くしている。最初の母は、スエと言う名前で、鷲三須分教会の須は、スエ母の『す』だと、父親に聞いたことがある。そのスエ母には、綾代という娘も生まれたが、生後間もなく亡くなった。私が見つけた日記にはその綾代姉の出直と、スエ母の出直のあった時代の日記であった。 

  樋口の家の入信は、鷲家分教会の萩原初代会長様より祖母ヨシが、「一家断絶する」と、家のいんねんをお聞かせ頂いて入信したという。その後、家業を捨てて道一条となり、三名之川分教会に来させていただいたと聞く。しかし道一条になっても、様々な苦労の道中は生半可なものではなく、厳しい節はその後、長い間続いた。祖父母にとっても、かわいがっていた末っ子、道義叔父の出直、また父にとっても、スエ母や、綾代姉の出直、またカネ子母の出直など、幾多の厳しい節が待っていた。

 その祖父母や父母の厳しい節の上に、私たち家族の今の幸せがある。その時の父の、苦衷にあふれた日記を読み返しながら、いまさらながらにそのことを思い、心よりの感謝の念が沸いて来る。

 日記の中には、今も教会の上に頑張ってくれている人や、その人の親の名前が出てくる。そんな時は、こんな昔から変わらず頑張ってくれているのだなあと、とてもうれしい気がする。逆に、今はそんなに熱心でない人の名前も出てくる。また今となっては聞いたことのないような人もいる。教会としての丹精が行き届かなかった点を本当に申し訳なく思う。

 そんな事を思いながら日記を読んでいたが、その時代にあらわれた色々な事情や身上をみるにつけ、『いんねん』というものの厳しさや確かさも見えてくる。七十年以上前に悩んでいる事と同じことを、その子孫が悩んでいることがある。

 信仰するということは、私たちにとって不都合な事はなくなり、自分たちに都合の良いことばかり出て来るということではない。信仰するということは、私たちにとって不都合なことが、後の幸せのための台であり、そのことを教え、心を変えさせたいと願う親神様の思い、教祖の思いを感じられるようになることである。

 私たちの一生は、たかだか百年足らずである。そう思えばそれだけである。しかし、父親の日記に如実に表れているように、それぞれにお見せいただく色々な節の中に、神様の思いを見つけ、自分を変える努力を怠ったならば、それは何時迄も『いんねん』として、後の人々を同じように悩ますのである。『死ぬことは出直であり、ちょうど古い着物を脱いで新しい着物を着るのと同じように、人間も、死んだら身体を神様にお返しして、魂はまたその魂についた徳だけをもって。また関係のある家に生まれ変わるのだ』と、お聞かせ頂く。そうであるならば、後の人は、まぎれもなく又自分でもあるのだ。

 自らのいたらなさを自覚して、変わること、変わる努力をすることが、このお道を通る私たちの一番大事な点の一つだと思う。      160年6月

 

 

「台風一過」

 六月の月次祭の日の二十日、季節外れの台風が紀伊半島目指して北上して来た。ちょうど月次祭の日の上陸予定で、何とも困った事だと思ったが、幸い風雨はかなり強い時間もあったが、上陸は免れ、被害もなくてすんだ。後で進路図を見ていたら、紀伊半島直前で東の方に進路を取り、ちょうど紀伊半島だけを迂回したような進路には驚き、不思議にさえ思ったが、今日はその話ではない。

 月次祭での神殿講話で、強い風雨に洗われ、一段と緑を増した庭の木々を見ながら、「神様のご守護は火・水・風のご守護とお聞かせ頂きます。水と風のご守護は充分といただいた。後は火だけです。火はぬくみです。ひのきしんをしてくださった信者さん方の暖かい心と共に、お食事をお召し上がりいただき、火と水と風のご守護を充分とお持ち帰りください」と話した。

 ほこりを被り、くすんだような木々の葉も、強い風と雨によって、本来の緑の美しさを取り戻す。木々には、人間のように自由に考える事のできる心をお与えいただいていない。だから風によって、枝をふるわせ、雨に葉をたたかれながら、ほこりを払ってもらわねばならない。

 神様は人間だけに、『ほこり』を払う二つの方法をお教えいただいた。木々と同じように神様に払ってもらう方法と、自ら払う方法である。

 神様を知らない間は、人間も、木々と同じように、風に枝をふるわせ、雨に葉をたたかれながら、『ほこり』をはらってもらうしかなかった。いろいろな災いを、どうしようもない災難として、嵐が去るのを待つように、ひたすら耐え忍ぶしかなかった。そして、災いの原因も、たたりだとか、神様ののおいかりだとか、自分に責任のないものに転嫁して、それを祓うことに専念しておればよかった。

 しかし、私たちは教祖から、『人間が『陽気ぐらし』をするのをみて神も共にたのしみたい』という、人間創造の元始まりのお話しをお教えいただき、その目的のために、神様からどのように考えることもできる心を、お貸し与えいただいたのだということも、お教えいただいた。その心から出る、様々な陽気ぐらしの妨げとなる心遣いを『ほこり』とお教えいただき、災いである身上(病気)や事情は、その『ほこり』を祓えという神様のお知らせや、お手入れだとお教え頂いた。祓うべきは、外ではなく、自らの心であるとお教え頂いたのだ。

 そして神様は、人間の心の様々な『ほこり』のような心の動きを、「神様の言葉を定規として、銘々が自分の心を澄ますことが、ほこりを祓うことなのだ」とお教えくださった。

 自らほこりを払うためには、自らの心をしっかりと見つめ直すことが必要である。自分の心を、自分の定規をもっていくら計ってみても、自分の定規は自分の心が基準だから狂いは発見できない。

 自分の心を計り直すには、別な定規を持ってくるしかないのである。そしてそれが、神様のお言葉であり、教祖のひながたなのである。

 自らを見つめ直すことはむつかしい。それは自分にとって大きな痛みがあるからだ。しかしいつまでも幼児のように、小石にけつまずいた時に、「この悪い小石め」と小石にばかり責任を転嫁する訳にもいかない。

 せっかく神様が、人間だけにお与えくださった心を、ほこりの方にばかり使わないで、しっかりそのほこりを祓う方にも使わせていただかねばならない。

 長い人生の中には、木々を打ち倒すような厳しい節もある。激しい風雨のように、起こってくる様々な災いの中で、自らの心にいつも問いかけていた者だけが、それに立ち向かう勇気をお与え頂ける。様々な災いを、自らを鍛えるための神の試練と受け取った人々が、それを乗り越えていけるのは、今も昔もかわらないことだ。                                160年7月